うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

すろーじゃむの草抜きと、新鮮な魚と、【精神分裂患者やジゾイド患者を取り扱うことの難しさは、彼らが私たちとコミニュケーションできないことにあるのではなく、それ以上に自分自身とコミニュケーションすることができないことにもある。彼らの自我でどの部分も、その部分間でのコミニュケーションができないことで、他の部分から排除されている。】


今日は、朝は事務仕事でしたが、思ったより早くできたので、お昼までジムで体を追い込んでいました(笑)
遅番の勤務だったので、午後からまた違う事務仕事をしてから、早めに入浴介助のある渥美まで行き、すろーじゃむの草抜きをしました。
 この山と、もう一山やったので、自分が汗臭かったです(笑)
 
 すろーじゃむの乾燥機のフィルターは一回でこれくらいの埃が付くので、まめに掃除機で吸っています。


 汗が多量に出たので、飲み物を買いに、近くのスーパーに行ったら、新鮮な魚が安かったので、これは刺身にしてもらっての値段ですか?と聞いたらそうだとの事。
写真を写させて頂き、親分に送りましたが、自分はお金を持たせてもらえないので(笑)買って帰るのは無理でした(笑)
 写真にはありませんが、鯵は桶の中ではねていました!



 本は、昼ご飯を頂きながら読みましたが、アップは昨日読んだ箇所です。今日読んだ箇所は、ヘレンケラーが出て来ていて、非常に興味深く読ませて頂きました。



抑うつ的水準ではとり入れられた乳房が自我によって破壊されてしまったが、自我によって再創造されうるという感情がある。それでふん便は自我によって対象からつくり出されたものであると感じられ、乳房の象徴として尊重されうるし、また同時に、自我特有の創造性が産み出したよいものとしても尊重されうる。 ふん便やそれ以外の身体から産み出されるものとこのような象徴的関係が確立されたときしたい絵を描いたり、粘土をこねるなどといったような外界のなかの物質への投影が起こりうるし、それが昇華へと使われうる。
 発達のこの段階が達成されたとしても、もちろん、それは不可逆なものではない。もし、不安があまりにも強いなら、個人のどの発達段階でも妄想-分裂態勢への退行は起こりうるし、不安への防衛として投影同一化が頻用されよう。これまで発達してきて、昇華においての象徴群として機能してきていた象徴群は具体的な類象徴群へと逆戻りする。このことは主に、強力な投影同一化において、自我は再び対象とこんがらがってしまう、すなわち象徴が象徴されているものとこんがらかるし、それで等価物へと戻るとの事実によっている。



ここで“類象徴”“象徴”のそれぞれの用語によって私が意図していることとそれらが生じてくる状態をまとめてみたい。類象徴においては象徴-代理物はオリジナルな対象であると感じられている。その代理物自体のもつ特性は認められるられない。類象徴は理想対象が存在していないことを否定するためか、迫害対象を支配するために使われる。それは発達の最早期の段階に属している。 本来の象徴は昇華や自我のさらなる発達に利用できるのだが、それは対象を表象していると感じられる。すなわち、それ自体の特徴は認められ、敬意を払われ使われる。それは抑うつ感情が妄想-分裂感情に勝っており対象からの分離、アンビバレンス、罪業感、喪失が体験され、それらに持ちこたえることができたときに生じてくる。象徴は喪失を否認することなく、それを乗り越えることに利用される。投影同一化の機制が抑うつ不安への防衛として使われるときには、すでにつくり上げられていて象徴として機能していた象徴群が類象徴に逆戻りするのであろう。 すべてのコミニュケーションは象徴を通してなされるので、象徴形成はコミニュケーションする能力を支配する。対象関係において分裂性の障害が生じるとコミニュケーションする能力は同じように障害される。第1に、主体と対象との分化がぼやけてしまうとの理由から、第2に、コミニュケーションの手段を欠いているとの理由からである。後者では象徴群に具体的な形で感じられ、そして、それゆえコミニュケーションの目的には利用できないということからである。精神病患者の分析のなかで絶えず繰り返される困難のひとつがこのコミニュケーションの難しさである。たとえば、分析家と家患者の言葉が実物か行動であると受け止められるので、それをコミニュケーションの目的に使うことは並大抵のことではなくなってしまう。 象徴群は外界とのコミニュケーションに必要なだけではなくない内的なコミニュケーションにも必要である。自分自身の無意識との接触がある人々のことを私たちが話すときにこそそこに何が意図されているのかが問われよう。それは、彼らの分析のなかで明らかになってくるような原初的な空想を彼らが意識的にもっていることではなく、自分自身の衝動や感情にいくらか気づいていることに過ぎない。しかしながら、これ以上のことを私たちは意図していると私は考える。すなわち、彼らが彼ら自身の無意識の空想との実際のコミニュケーションをもっていると私たちは考えている。そして、このことは他の形態のコミニュケーションと同じように、象徴の助けがあって初めて成り立つ。そのようなわけで、「自分自身との接触を保っている」人々では自由な象徴形成が常にあり、それによって彼らは根底にある原初的空想の象徴的表現を意識的に知覚したり、支配しうる。精神分裂患者やジゾイド患者を取り扱うことの難しさは、彼らが私たちとコミニュケーションできないことにあるのではなく、それ以上に自分自身とコミニュケーションすることができないことにもある。彼らの自我でどの部分も、その部分間でのコミニュケーションができないことで、他の部分から排除されている。