うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

Kさんの作品と、【そうした母親のもとで幼児は、「他者と共にある体験」を維持する条件として、『母親にとっての抗うつ剤』の役割をあたえられた乳児は、わざとらしいほどに明るい『社会的自己』を形成するかも知れない。】


 親分が、あいちアールブリュット展用の作品の額装をしていました。
やっとKさんの作品が、世の中に出ます!みなさんの反応が楽しみです!

 

 今日は、休みでしたが、親分が昨日一日かかって、、送迎シフトを作っていて、まだできていなかったのか?3時に起きてまたやっていたので、早番を代わりました。(笑)今日は昼から送迎会議があるのでそれの準備でしょうが、みなさんと一緒に作って行けばいいのにとも思いますが.....。
 キャパが少ない人間が仕事をすると、中々前に進みませんね......。でも、自分一人で全てが出来るわけでもないので、それも仕方がないですね......。出来る人に振って行けばいいのになと、いつも思います。自分の現場での事務仕事(法人の方は自分がやっていますが)は、ほぼ、職員さんにして頂けるようになりました。誰でも最初は時間がかかったり、ミスを犯したりするものです。それを恐れていたら無理ですね。キャパが狭いと、そういう考えすら浮かばないのかも知れませんね.....。悪循環が続くばかりですね........。
 まあ、現場に出たら、元気を頂けるので、いつでも代わりますが(笑)!



 本は頂いた物を、読ませて頂いています。
歯医者さんに行く予定を忘れそうになり、皆さんを送り出してから、気が付き10時予約だったので、何とか行けました。
 その待ち時間(一瞬でしたがw)に読ませて頂きました。
事例検討なのですが、事例を上げている方々の肩書が、凄くてびっくりしました。その中に友人がいるのは、自分のことではありませんが、誇らしい気持ちになりました!アップはまだ、丸田先生が続きますが、そのうち抜粋させて頂くつもりです。
 スターンも、少し読み始めています。





 下記は、フォーマルな情報だけでなく、インフォーマルな情報もきちんとチェックしておけ、みたいな感じがしました。
見てたら分かるのにね.....。とはじめに働かせて頂いた施設の利用者さんのお母さんが、ポツリと言っていた事、まだ忘れていません。
 『それに加えていない話し方、顔の表情、目つき、体の動かし方など、非言語的なな『多重チャンネル』コミュニケーションによって、言語化されなかった内的主観的体験のニュアンスもかなり伝えられます。それが、『言語化された公式コミュニケーション』が本気かを示す『勾配情報』です。』


 分裂されたものを統合されるようにさせて頂くのも、自分たちの仕事と思っていますが、そこまで行きつくには、気をつけないといけないことが、沢山あります。その一つが、下記の2つに書いてくれている気がしました。
 『ここで『社会的自己』とは、周囲と共有され、選択的調律を受け、社会的に強化される自己体験であり、『拒否された自己』は、共有・調律を受けることがないまま言語表象への道を閉ざされた自己体験の側面であり、そこには、(拒否された)実感としての個人的・情緒的意義が込められています。たとえば、幼児が熱狂している時はうまく調律できず、その熱狂が覚めかけた時の慰めは巧みな母親(選択的調律)。』

『そうした母親のもとで幼児は、「他者と共にある体験」を維持する条件として、『母親にとっての抗うつ剤』の役割をあたえられた乳児は、わざとらしいほどに明るい『社会的自己』を形成するかも知れない。』





第7章 乳幼児精神医学からの還元(コフートからスターンへ)

4)言語自己感
(3)〜とは言え、言語化されない部分がすべて、コミュニケーションから外されるわけではありません。実際、大人同士の日常会話は言うに及ばず、乳幼児とのコミュニケーションを見ていても、両者の間で交わされるのはない白か黒か(イエスかノーか、幸せか寂しいか)という『カテゴリー情報』だけではありません。それに加えていない話し方、顔の表情、目つき、体の動かし方など、非言語的なな『多重チャンネル』コミュニケーションによって、言語化されなかった内的主観的体験のニュアンスもかなり伝えられます。それが、『言語化された公式コミュニケーション』が本気かを示す『勾配情報』です。たとえば、電気プラグに触ろうとする乳児に向かって叫ぶ母親の「ノー!」は、声の調子も、目付きも、顔付きも、また体の動きも、絶対的「ノー!」でしょう。しかし、乳児が一人歩きして自分のもとから離れて行くのに不安を覚える母親が、人前で過剰に甘える乳児に向かって言う「ノー」は、「本当はイエスだけど公式的には(人前では)ノー」かもしれない。そうした『勾配情報』を乳児は、実に的確に読み取ります。だからこそ、「ノー」という言葉だけでなく、その背後にある『多重チャンネル』コミュニケーションも考慮に入れて、甘えるのです。 そして、「他者と共にある待機」を繰り返す中で、乳児の自己体験は、『社会的自己』(偽りの自己)、『プライベートな自己』、『拒否されたdisavowed自己』(本当の自己)へと分断されていきます。ここで『社会的自己』とは、周囲と共有され、選択的調律を受け、社会的に強化される自己体験であり、『拒否された自己』は、共有・調律を受けることがないまま言語表象への道を閉ざされた自己体験の側面であり、そこには、(拒否された)実感としての個人的・情緒的意義が込められています。たとえば、幼児が熱狂している時はうまく調律できず、その熱狂が覚めかけた時の慰めは巧みな母親(選択的調律)。そうした母親のもとで幼児は、「他者と共にある体験」を維持する条件として、『母親にとっての抗うつ剤』の役割をあたえられた乳児は、わざとらしいほどに明るい『社会的自己』を形成するかも知れない。
こうして、言語化された『体験の公式版』と、実際の内的主観的体験との間の間隙に、神経症的な行動を構成する素地が拡大してゆきます。