うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

栄から名古屋までと、【自殺は本物の解決にはならず、狂気の側の勝利にすぎない、しかも、その狂気こそは、わたしが、命を懸けて闘い、そして、あまりにもしばしば屈服してきた(Winnicott 1954a)相手なのだと。】


 今日は、私用で名古屋に早朝から出ていました。
今回も、この作者さんを聞くのを忘れてきました(笑)
 来月は、忘れずに聞いてきます。
 これは、現状に甘んじていないで、もっと高みを目指せ!と言われている気がしました!
 毎日、ぬるま湯に浸かっていますんで........。


 35℃以上あった様なので、一番暑いお昼過ぎに、栄から名古屋駅まで歩いてみました。
少し熱中症の様な症状になれば、どう対処するのがいいのか?知るためでしたが、今日は適度に風が吹いていて、数字より涼しかったせいでしょうか?
 でも、こんな物があれば、速効拭きたいくらいの発汗はありました。


 先程、ひーひー王子と散歩していたら、空がきれかったので写してみました。相変わらず、画像は粗いですが(笑)




  


 本は、電車の中や、マックで時間まで沢山読みましたが、難しい個所に入ったので、思ったよりも進みませんでした(笑)。

 岡倉天心先生は、生活こそが芸術だ!みたいなことを仰っていましたが、下記の様な事象も破壊なら、料理も立派な破壊なので、生活=破壊活動なのか?って思い、岡本太郎先生まで思い出してしまいました(笑)。
『真っ白なキャンバスや、絵の具もチューブを破壊することなしには、絵を描くことはできないのです(それに、あらゆるものは、両価的なのです)。』






 下記では、こういう風に書いていますが、後の方で、自殺という選択肢も残す方がいいとも書かれています。上記にあるように、あらゆるものは、両価的だったら、生も死も、おそらくそうなのでしょうか?ウィニコット自体が、全ての事象に両価性を見ていたからなのでしょうか?
 『自殺は本物の解決にはならず、狂気の側の勝利にすぎない、しかも、その狂気こそは、わたしが、命を懸けて闘い、そして、あまりにもしばしば屈服してきた(Winnicott 1954a)相手なのだと。』





いまや、わたしは、本物、「託児所」となった場、の中にいたのです。そこは、自分をコントロールしなくても安全、だったのです。自他の境界は、充分で柔軟なものとなりました。精神的には、この場は、D.W.の面接室の延長でしたので以前あそこで、わたしは、彼の花瓶をたたきつけたのでした。ついに、自分の生か死かの選択を、自分自身に、ハッキリさせることができました(生くべきか……生きざらるべきか、――Hamlet,第3幕、第1場、この点は、1971bのWの解釈と異なりますが)。彼がわたしを病院に置き去りにしたのは、わたしが花瓶を叩きつけた鴇の、彼の反応の再現でした。しかし、わたくしが壊した花瓶の残骸のところで、わたしを独り、置き去りにした時とは違い、こんどは、彼との繋がりは、失われてはいなかったのです。 ずーっと後になって分かったのですが、花瓶の残骸それ自体がある一種の創造でもあったのです。なぜなら破壊と創造とは不二のものだからです――真っ白なキャンバスや、絵の具もチューブを破壊することなしには、絵を描くことはできないのです(それに、あらゆるものは、両価的なのです)。 「何者かが死ぬことなしには、生はありえず、何者かが生きることなしには、死はありえぬものなれば……」(Thompson 1924)ですし、「愛は、破壊を持っている」(Winnicott 1963b)なのです。
 自殺は本物の解決にはならず、狂気の側の勝利にすぎない、しかも、その狂気こそは、わたしが、命を懸けて闘い、そして、あまりにもしばしば屈服してきた(Winnicott 1954a)相手なのだと。