うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

土用の丑と、昨日の夜景と、【生きた人間であることが、なにより大切なことであり、歳がいくつであっても、playこそは、人の生にとって、不可欠の部分なのでした。】


今日は土用の丑!でうな重でした!
毎年、自分は当たらなかったので、今回は嬉しいです!でも、いつもは、魚屋さんのだったのですが.....と、思ってすきやのを、頂きましたが、費用対効果(笑)を考えると、美味しいいですね!
 うなぎは、こちらに来てから、人のおごりばかりですが(笑)本当に美味しいものを頂いていて、なんか偉そうに上から目線で(笑)頂いたのに、普通に美味しかったです。
まあ、上を見ればキリがありませんからね!皆さんも美味しそうに食べられていました!



 こちらは昨日の写真ですが、もったいないので(笑)アップしました。
世の中、楽しく暮らすのも、楽しくなく暮らすのも自分次第だし、いくら盛っても、実力以上のものは出来ないし、それなら自分が出来ることを順番に片付けていくしかないですね。
と、周囲を見ていて、今日は思いました(笑)。笑って過ごせれるなら、その方がいいですもんね!


 今日は、夜勤だったので、ジムで2時間汗をたっぷり流してきました!
夜勤の仕事がひと段落したので、書類作成のついでにアップです!元は、朝つくりました(笑)

 丸田先生の本も後、2章で終わりますが、もう少しリトル先生のアップです。

 下記の様に、現実感がないと、空想や妄想だけでは生きるという感覚がないのかもしれませんね。自分も時々そうなってしまいますが、ずっとそんな感じの方も知っていますが、やはり現実感が持てないと、考えなどが統合されないので、整合性のない内容の話ばかりになっていますね.........。真剣に何かに向かっていないと、例えば自分的に言えば、福祉の現場や、音楽・アートに真剣になっていれば、自然と毎日、自分に足りないものを探そうと、本を読みまくったり、ギターを弾きまくったり、センスを磨きまくったり何十年もしている人間と、適当にやり過ごしている(言い訳や他人の批判ばかりして)人間とは、話が通じないのは当たり前なのかな?って偉そうに思ったりした一日でもありました。ウィニコットの言う、生き残りというのは、例えば本を読み続け、自分にないものを吸収し続ける事であったっり、ギターを目標をもって弾きまくったり、センスを磨くために、本物を探し続けたりすることでもあるのではないのか?だから自分はその3つを死ぬまでやり続けていこうと思いました。

『生きた人間であることが、なにより大切なことであり、歳がいくつであっても、playこそは、人の生にとって、不可欠の部分なのでした。』





 〜創造の基盤であるplay(Winnicott 1971a)、が座を獲得し、数年前に誕生したのは、二人の関係、が成育していたからですし、そこにいるのは、二人の分析家でした。セッションというものは苦痛であたりまえだと、はっきりと確信している二人でした。そして、D.W.は、分析というものは、真に苦悩している人、にだけ有効なのだ、と充分に分かっていながらも、勇気づける楽しい人間関係には価値があるものだ、と確信してもいました。わたしの精神的成育に役立った、そこでのplayの少なからぬものは、わたしの母のplayと、似てないこともないものでした。


生きた人間であることが、なにより大切なことであり、歳がいくつであっても、playこそは、人の生にとって、不可欠の部分なのでした。
 D.W.は、分かったとの場合のような分析の際に、彼の応えねばならない、種々の責務を、わたしが知ることを許容できる人でした。それら責務に、彼は進んで応えようとしていたのでした、しかも彼は、分析を継続せねばならないという状況のときにだけ、応えようとしたわけではなかったので、そうした責務とは、不安や、罪悪感や、痛恨や、自信のなさや無力感などに耐えること、耐えられないものに耐えることなのです。そこには、パラドックスやアンビバレンスに対する防衛はないのです。