今日の日中と、【誠実で正直であることは、嘘をつくよりも確かに心地よいことです。ですから、差し迫るさらに大きな不快の危険によってのみ、人は嘘へと強制されるのです。】
今日の日中は、利用者さんの数に対して、職員配置に余裕があったので、外食に行きました。
自分は初めてのお店でしたが、他の方は何回目かなので、皆さんの後に付いて行かせていただきました。
親分以外は、オムライスで、ふんわりとした玉子に包まれていて、美味しかったです!
皆さんも、美味しそうでした!
暑さに負けず、利恵さんは午前中に買い物に一緒に行き沢山歩きました。
午後からは、かおちゃんとジャスコに紅茶とお菓子を買いに行きましたが、今日も本当に暑かったですね!
買い物が終わったら直ぐに、お風呂に入りました!
本は、早番さんが初めての方だったので、ちょうど主任さんが夜勤明けで、朝の流れを教えて頂くようにお願いしていましたが、さすが主任さんだけあって、早番さんが入るまでにほぼ仕事が終わっていました.......。長くなりましたが(笑)、早めに出て、早番さんの時間までファミマで読みました。別に早くいく必要はなかったですね(笑)。早番さんすら仕事がなかったくらいですので(笑)。まあ、いてくださるだけでも、心強いですが!
今回、アップさせて頂いた箇所の中でも下記が一番印象に残りました。
これが行き過ぎてしまうと、発症してしまうのでしょうか?長年、そういう状況にいれば、そうなっても致し方ないないのかも知れませんね。自分は、現場ではその方の本心が言えるような場を作りたいという思いで日々を送らせて頂いています。先日のアップにも有った様に、厳格すぎる支援(親)では、本心が出せないと思われるので、どこかに遊びの要素(お互いの余裕)を入れながら、接することによって、その方の本心が聞く事が出来、こちらの本心も出せて、関係が初めて作れるとも思われます。そうするには、一次愛的(その方を、無償の愛で)な雰囲気で包み込む必要があるように感じています。しかし、ずっとそれではお互いに成長がないので、一次愛的な関係が作れたら、今度は、お互いが、お互いに依存しないで居られるように、少しずつ距離をとる方策を考えていかなければなりませんが。
『誠実で正直であることは、嘘をつくよりも確かに心地よいことです。ですから、差し迫るさらに大きな不快の危険によってのみ、人は嘘へと強制されるのです。』
〜現実的なものを単に空想されたものから厳密に分離するという意味での再構成が成し遂げられない限り、いかなるヒステリー症例も治療し終えたとはみなせないと確信したのです。分析的解釈が妥当である可能性は認めるものの、その事実性を確信していない人は、それによって何らかの不快な出来事から病へ、つまり空想の世界へと逃亡する権利を確保しており、再発防止という意味においても治癒したものと終結を理解するならその患者の終わりとみなすことはできません。ですから一般化すれば、神経症者は、無意識の空想を楽しむこと、つまり無意識の虚言傾向を断念するまで治ったとみなされないと言えるでしょう。このような空想の巣を突き止めるための悪くない方法は、たとえば目立たないものでもそれ事実の歪曲があった現場でまさに患者を取り押さえることです。分析の中でごく頻繁に起こるような歪曲です。自らの虚栄心に囚われたり、何らかの事実あるいは感情をさらけだすことによって分析家の好意を失うのではないかと不安を抱くと、例外なく患者は、時によって事実と抑制へ、あるいは歪曲へと流されます。この種の観察は、私たちが初めに患者に持ち出すような完全に実現された自由連想は理想的な要請であって、言わば分析終結後にようやく満たされるものであることを私に確信させました。このようなその場の小さな歪曲から出発する連想は、ごくしばしば類似の、しかしずっと意味深い幼児期の出来事、つまり現在の自動的な思い違いがまだ意識的、意図的であった時代にたどり着きます。 子どもの嘘はどれも苦しまぎれの嘘と呼んで間違いなく、後の虚偽傾向もそれとつながっているので、あらゆる嘘がいくらかは必要に迫られてのものなのでしょう。これはまったく当然でもありましょう。誠実で正直であることは、嘘をつくよりも確かに心地よいことです。ですから、差し迫るさらに大きな不快の危険によってのみ、人は嘘へと強制されるのです。教育を通して押し付けられた道徳規定や道徳的感情は過剰な作為によって誇示されているのに対し、理想、自画自賛理想、超自我といった心地よい響きの名前で私たちが呼んでいるものは、現実の欲動の動きの意図的抑制のおかげで発生し、それゆえ否定されねばなりません。それが倫理学者や当然神学者にどれだけの苦痛を引き起こすとしても確かに虚言と道徳が互いに何らかの関係を持つと言うのを避けることはできません。子どもは最初、おいしいと感じるものはすべて良いと思います。その後、おいしいと感じるもののいくつかは悪いと思いそして感じ、そのかわり困難な断念規定を履行することを最高の幸福と満足の源とならしめることを学ばねばなりません。生来の無道徳性と後天的な道徳という二段階が、あらゆる欲動放棄と不快の肯定がまだあからさまに虚偽の感情つまり偽善と結びついているある程度の期間と移行期によって互いに隔てられていることは、もともとそれらしいものではありますが、私たちの分析が絶対の確信をもって示す事柄です。〜