うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

石化ひのきと、【ですから私たちが皆様にお話しできるのは、子どもたちをいかに教育すべきかよりは、むしろいかに教育しないかなのです。】


 梅雨に入り、水を得たら、石化ひのきが、生きかえりました。
それまでは、生きているのか?死んでいるのか?半信半疑でしたが、青々としてきたので良かったです。


 今日は夜勤明けで、お昼から会議だったので、帰宅後直ぐに仮眠しました。ちょうど良い時間に起きる事が出来、軽く昼食を摂って、から向かいました。
 会議では、発言する職員が決まってしまっていますが、取り敢えず、民主的に進めようと、一人ひとりに意見を乞います。
みんながいる前での決定事項にしないと、2〜3人でこそこそと決めても、全く意味がないので、オープンに意見を言って頂くようにしたいものです。
 自分の状況に立って考えるのも良いのかも知れませんが、自分には出来なくてもあの人が出来るのなら、あの人にやってもらうと言うのも(その方ばかりの負担になるのは勿論いけませんが)良い方法だと思われます。自分は体力だけが自慢なので(笑)肉体労働は、身体を鍛えて、尚且つお金を頂けると思い、お得感があって大好きです!
 体に不都合がある方は、それなりのことをして頂いていますし、自分には出来ない事をやって頂いているので、劣等感とか持たなくてもいいのになぁと思ってしまいます。適材適所なので、思いっ切って与えられた仕事をやりきって頂ければと思っています。

 さすがに今日は本が読めませんでしたが(笑)、隙を見てギャロッピングはやりました(笑)。やっぱり自分のアイデンティティは、音楽です!関係ないか(笑)



 支援で自分が一番してはいけないなと思うのが、自分がされて嫌な事は、相手にもしないでおうこうという、基本中の基本なことです。
下記に書かれているように、親は自分の子ども時代を忘れてか?忘れられずか?医者にするとか、弁護士にするとか、東大にとか分けのわからないことを言ってしまいがちですね(笑)。上記の適材適所ではありませんが、その方に合った仕事や役割があるはずなので、良く接してそれを見極めれれば、そちらに進むようにアドバイスができればいいですね。支援も同じことが言えます。基底欠損水準から出れないと分かっていても、少しだけでもエディプス水準を体験して頂くだけでも、(それが感じられるまで、緩やかに反復して)近い未来像が変ります。待つということを覚えて頂くだけでも、万能感(この場合、自分を制御できない感覚)が薄まります。
 けじめをつけるということは、そういうことではないでしょうか?




 精神分析の教育的価値の輪郭を正確に記すことはまだできないと言わねばなりません。また、そうした教育について実践的指示を詳細に提供することもできません。というのも精神分析はごく慎重にしか忠告を与えないもので、扱う現象はもっぱら教育学が全くたずさわってこなかったか、あるいは非常に間違った方法で取り組んできたものからです。ですから私たちが皆様にお話しできるのは、子どもたちをいかに教育すべきかよりは、むしろいかに教育しないかなのです。前者はずっと複雑な問いですが、いつの日かこれについても皆様に納得のいく回答ができることを願っていますがこのような理由から、今日のお話しは私の望むより一般的なものにとどめざるをえません。 家庭の子どもの適応は、両親が、自ら自身をよりよく理解し、そうすることで大人の心の生活について一定の観念を得てはじめて始まります。子どもをいかに教育すべきかを親はうまれながら知っていること、これは今まで立証ずみとみなされてきたようです。もっともその反対を言っているドイツのことわざがあります。「父親になるのは父親でいることよりやさしい」。結局、間違いは親が自分の子ども時代を忘れることから始まるのです。極めて正常な人でも生後5年間、記憶に著しい欠如がみられますし、病理的な症例ではこの健忘症はさらに長期間に及びます。子どもが大人の精神的能力のほとんどを実際に獲得するまでには何年もかかるものです。そしてそれにもかかわらずその年月は忘れられているのです。自らの子ども時代への理解の欠如は、親にとって教育の本質的問題を理解するのをひどく妨げます。