うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

ホットサンドと、【ところが基底欠損水準では、患者は自分が押しつける要求を全面的に治療者が肯定充足してくれると期待するばかりだ。】


ショートの方が、明日の朝食は、ホットサンドが食べたいとのことで、準備をしました。
自分では、食べたことがなかったので(よく食べられる方に差し上げていましたのでw)、先週初めて食べたらおいしかったです(笑)

 チーズを買いに出た時に、ちらっと増築工事中の中に入ってみたら、壁紙を貼る機械?がありました。
壁紙を貼るというのは、完成まじかでしょうか?食堂も、約2畳分広くなります。

 昨日から、ホームの方の夏用の服を準備(購入)していますが、自分の服なら簡単に買えるのですが、人のは非常に気を使いますね。



 本は、朝事務仕事を少しだけして、ジムが開く時間までと、昼食時に読みましたが、終わりませんでした(笑)
早く次の本を.....と思いながら(笑)読み込んでいると中々進みません。後、2章くらいですが....。
 夜勤前にアップする予定が、今になりました(笑)書き込みたいことが沢山ありましたが、次の機会にさせていただきます。
今日も現場にいて、基底欠損水準にあると思われる方には、一次的な愛・物質が必要なんだな、と思う瞬間がありました。
まあ、皆さん(健常者と言われる方も含め)退行しないことはないので、そんなとき、ふと、昔を懐かしんだりしませんか?自分はします。
先日、一日で原田真二の『キャンディ』と『ティーンズ・ブルース』をアコギ用にアレンジしました(笑)個人的にこのアレンジが気に入っています(笑)

 下記は、施設職員と施設職員のことでもあるように思いましたので、きちんと皆で、情報や技法を共有して、きちんとした支援ができる職員ばかりにできたらいいなと、一人で考えていました。一人かよ(笑)

『各派が生み出す新人分析者と質の如何であること。以上の点で大きな差があることは確かだ。』

 巡回が終わって一休みでした。仕事に戻ります。






〜すでに述べたように、どの場合でも患者は“治療者の時間を使っても惜しくない”患者とされている。救いの手をどうしようもなく必要としていて、救うだけの価値のある患者とされている。この感じ方をしていること自体が陽性の逆転移の明々白々たる徴候だ。分析者は自分の陽性逆転移すなわち“自分が情緒的に巻き込まれていること”を認知し、それが患者の病気の一症状であることを見据えるべき(第四章参照)なのに、それを現実と知覚は、それに働きかける決断をする。この決断の背後には一つの先入観がある。“正規の”分析の場の基本条件は欲求不充足と限界づけであり、患者はそれに耐える力がないのだが、この耐性のなさを過去の何らかの外傷状況への強力な固着の一徴候としての“反復”と解することである。この根拠薄弱な仮定に基づいて治療者が企てることには二つある。一つは患者の自由連想内容と患者の転移神経症(この反復は実は転移神経症である)の症状から架空の外傷状況を再構成しようとする。いま一つは、治療の場の可逆的パラメーターを動かして、無際限の反復を誘発する刺激の働きを決してしないような、治療の場の雰囲気を患者のために創り出そうとする。 一部の分析者は、私もその一人だが、むしろこういう考え方もあることを患者に話し、それを討論し合って、その上で患者の協力をきちんととりつづけようと試みるが、残念ながらこうしてみても大差はないのだが理由は単純で、正常成人の通常言語すなわちエディプス葛藤水準で討論しなければならないのに反復が生起しているのは基底欠損領域に属する原始的二人関係においてだからだ。エディプス水準ならば患者は分析者が普通以上の努力をしていることを認めて感謝し、全面的協力を約するだろう。ところが基底欠損水準では、患者は自分が押しつける要求を全面的に治療者が肯定充足してくれると期待するばかりだ。それ以上の自由性は患者にない。自分ぬきでは問題関心も事態にまったく影響を与えない。この水準においてはどんな欲求不満も激烈な症状を発生するが、その欲求さえ満足すればたちどころに症状は消失して、困ったことに、個別的な欲求がもしたちどころに是認され何の面倒も起こらないと、それは全然無価値とされ、患者の“あくなき欲求”は別の不足に転導される。どの充足欲求になるかは、たしかに葛藤の過去に規定されるが、たったいま円滑に充足された要求が何であるかにも規定されるらしい。 こうなれば一つの悪循環が生まれても不思議ではない。アイスラーの考えをかりれば、分析の場のパラメーターにはひとりでに逆向きの変化を打ち消すパラメーターもあるのだが、あるパラメーターの変化の上に第二のパラメーターの変化、第三、第四のパラメーターの変化が重なって変化が大幅となれば、その結果がもはや可逆的でありえなくても不思議ではない。治療関係にある者は双方とも各々道理にかなった正当な根拠のある行動をしているのに、何がよくないのだろう。そのは二人の間で展開しつつある例の二人関係である。信じられないかも知れないがこれははげしい増悪を生む。この増悪を双方は転移の中で感じとる。また一部の、自己に誠実な分析者が認めるとおり(ウィニコット、一九四九年)、逆転移の中においても感じとる。この実験治療の重要な構成要素の中には法外な誠実さが数えられるが、そのせいで、分析者には一種の奇妙な態度が生まれる。文献でも学会の報告でも、たえず失策とへま、敗北と欠点を告白しつづけることである。この弁解の洪水は聞く者を驚かせる。これはクライン派の用いる解釈法の生む雰囲気と対極的だが、“管理”法によってもほぼ同量の増悪と攻撃性を患者に誘発するとは衝撃的である。しかし理想化された分析者のとり込み、分析者との同一視はどうやらクライン派程ではないように思われる。 用いる“言語”も両派に差がある。違い方も似ている。“管理”派は一派と言うほどの態をなさず、前二派と正反対に組織も団体精神もなく、そのため、自派固有の言語も発達しなかった。もっともウィニコットの思想の影響下に自派固有の言語が生じる兆候はある。
第一六章から第一八章まで相違なる技法を三種類叙述したが、技法の治療効果効率が肝腎の問題である。しかし答えは主観的にも客観的に実に難しい。三派のどれに属しても、属する人に偏見をあるのは確かだし、さりとて私のような部外者も偏見は避けがたい。それだけでなく部外者は自分以外の分析者の治療実践の価値判断法を持たない。理由は単純で、いろいろな事情を知らないからである。こうして、価値判定し基盤は主観的印象だけになってしまう。そして主観的印象の出所は、一部は印刷物される論文、一部は学会報告、それからこれが結構大きいのだが、各派が生み出す新人分析者と質の如何であること。以上の点で大きな差があることは確かだ。しかし公衆の面前で各学派の優劣を論じる勇気はまだない。それを印刷に付するのはなおさらである。
ここまでは批判論だったが、次の第四部では、私が分析開業医として観察しえた退行についての自己の臨床体験をとりあげて論じ、最後の第五部では私が基底欠損患者治療の場で有用と認めた技法を語りたいと思う。