うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

ぶどうと、いちごと、誕生会と、【逆に、患者がエディプス領域より下位の地点で患者を襲っているならば多分、相当の退行が生じねばならないし、また実際にみられるだろう。】


すろーじゃむのブドウが展葉しました。芽の状態では、弱そうだったので、心配していましたが、元気な感じで良かったです。
今の所、植えてから、無農薬・無肥料で、唯一の栄養源は、周囲の雑草です(笑)今はマメ科の雑草が沢山生えているので、刈りまくって(笑)根元に置きまくっています(笑)窒素分が賄えるでしょうか?リンやカリュウムも必要ですが、カリュウムはイネ科の植物にありそうですね。リンは魚の骨か?

 イチゴも、散水と雨で葉が立ってきました!花も満開!今年も沢山食べれそうですね。



 今日は貴ちゃんの誕生会でアプレシオの麺バイキングに行ったそうで、親分から写メが送られてきましたが、画像が悪く(笑)全体を撮れていません.....。
まあ、ゆうちゃんが好きな物を摂りたいだけ取るので、目を光らせておかないと大変なことになるので(笑)きちんと写せないですね....。


 
 本のアップは、順番が違いますが、秀逸すぎる注釈なので、先にアップさせて頂きました。
これは、訳者の中井久夫先生の注釈なのでしょうか?これだけで一つの要約になっています。
 下記の4つ(青字)は、基底欠損になる理由でしょうか?《ある持続期間を持った対人的な場である。》は、サリヴァンを思い出します。ケースメント先生は認めたくないようでしたが......。
『もちろん外傷そのものは必ずしも単一事件ではなく。一般には反対で、個人とその環界との間の苦痛な誤解――“適合・フィット”の欠如――が原因となって生じる、ある持続期間を持った対人的な場である。原則として個人とは小児、環界とは小児と関係する成人の世界である。』

 『たしかに、一般に“適合”が欠如しているといっても、一人あるいは二人以上の成人が小児の側に立ってくれる場合もあるにはあるけれど、大概は未熟で脆弱な個体が自力で外傷的に場に対処しなければならない。』
『こうして、小児は外傷に対処すべく余儀なく自己流の方法を使用するが、この方法は、小児が絶望の中でつかんだものか、さもなくばは理解など抜きで大人も小児に投げてよこしたものである。』
『小児の以後の発達は、いくつかの面では助けになっても必ず高くつき、何よりもまず、自然な発達とは異質なこの方法によっていわば筋書きが書かれる。いずれにせよ限界づけられる。しかもこの方法は小児の自我構造の中に基底欠損としてとり込まれ、この方法以上にものやこの方法と逆のものは小児の恐怖すべきもの、どちらかといえば不可欠な提案として衝撃を起こすだろう。』




 下記の2つ(赤字)は解決方法でしょうか?
《一部の例では、外傷以前の時期まで遡ることが明らかに必要である。患者と外傷自身を再体験し“固着”したリビドーに動員をかけて、外傷をめぐる種々の問題に対処する新方策を発見するためである。》これをするには、患者さんにまずは同一化して、外傷体験をも同一化し、どのような外傷によって固着が発生したのか?を見て行くことでしょうか?そしてそれを処理する。言うのは簡単ですね(笑)でも、そこに入って行くのには、相当の集中力と沢山の言葉(学習)が必要なのは言うまでもありませんね....。『とすれば分析治療する仕事は、再適応への道をふさぐ“固着”といわれる恐怖を処理して、患者が潜在能力を拡大し自己の困難に対処する新方法発展の方途を開くことにある。試みの成否は、もちろん、発達のどの時点で外傷が小児を襲ったか、当時選んだ方法が“性器愛”の発達とどこまで両立しうるか否かにもよる。』
『一部の例では、外傷以前の時期まで遡ることが明らかに必要である。患者と外傷自身を再体験し“固着”したリビドーに動員をかけて、外傷をめぐる種々の問題に対処する新方策を発見するためである。もし外傷が発達の比較的後期に生起したものならば、治療的遡及の到達点はエディプス水準の領域内のすでに入っており、それ以上の退行は不必要だろう。〜逆に、患者がエディプス領域より下位の地点で患者を襲っているならば多分、相当の退行が生じねばならないし、また実際にみられるだろう。』






(注1)この相違に対する理論的説明の一つに外傷の観念を用いうると思う。それに従えば。個人は程度の差はあれある時点まで正常が発達し、そこで何かの外傷をこうむる。外傷を受けた受容以後の発達はその特定の外傷、すなわちその人の基底欠損領域の影響を拮抗しようとしてその時点では発達させた方法によって根本的に影響される。もちろん外傷そのものは必ずしも単一事件ではなく。一般には反対で、個人とその環界との間の苦痛な誤解――“適合・フィット”の欠如――が原因となって生じる、ある持続期間を持った対人的な場である。原則として個人とは小児、環界とは小児と関係する成人の世界である。 たしかに、一般に“適合”が欠如しているといっても、一人あるいは二人以上の成人が小児の側に立ってくれる場合もあるにはあるけれど、大概は未熟で脆弱な個体が自力で外傷的に場に対処しなければならない。まったく助けが来ないか、来ても誤解の延長線上をほとんど出ず、小児の役に立たない。 こうして、小児は外傷に対処すべく余儀なく自己流の方法を使用するが、この方法は、小児が絶望の中でつかんだものか、さもなくばは理解など抜きで大人も小児に投げてよこしたものである。善意の大人かも知れないが、無関心な大人でもありうるし、なげやりな個体、心ない大人、敵意を持った大人のこともありうる。少し前で述べたように、小児の以後の発達は、いくつかの面では助けになっても必ず高くつき、何よりもまず、自然な発達とは異質なこの方法によっていわば筋書きが書かれる。いずれにせよ限界づけられる。しかもこの方法は小児の自我構造の中に基底欠損としてとり込まれ、この方法以上にものやこの方法と逆のものは小児の恐怖すべきもの、どちらかといえば不可欠な提案として衝撃を起こすだろう。 とすれば分析治療する仕事は、再適応への道をふさぐ“固着”といわれる恐怖を処理して、患者が潜在能力を拡大し自己の困難に対処する新方法発展の方途を開くことにある。試みの成否は、もちろん、発達のどの時点で外傷が小児を襲ったか、当時選んだ方法が“性器愛”の発達とどこまで両立しうるか否かにもよる。一部の例では、外傷以前の時期まで遡ることが明らかに必要である。患者と外傷自身を再体験し“固着”したリビドーに動員をかけて、外傷をめぐる種々の問題に対処する新方策を発見するためである。もし外傷が発達の比較的後期に生起したものならば、治療的遡及の到達点はエディプス水準の領域内のすでに入っており、それ以上の退行は不必要だろう。また分析の場でそれ以上の退行がみられることはなお稀だろう。逆に、患者がエディプス領域より下位の地点で患者を襲っているならば多分、相当の退行が生じねばならないし、また実際にみられるだろう。