ナイロン弦と、【この段階における主体と対象あるいは広袤間の調和関係持続は空気供給持続と同等に重要なことを念頭に置けば、両者間の調和が乱された時に派手で激烈な攻撃症状が出現することもなるほどと思われる。】
アコースティックギターに張れる、ナイロン弦と言う事で、ちょっと張ってみましたが、自分のギターにはテンションが低すぎて、とても弾く事が出来ないし、チューニングが全くできませんでした。1週間くらい1音上げて張ったままにしてましたが、直ぐに2音くらい下がってしまい、全く使い物になりませんでした。
元々、クラッシックギターから入ったので、残念でした......。
指がまだ完全に治っていませんが、イタリアの弦を張りました。まだ弾けませんが(笑)
中井先生の訳は、難しい漢字が沢山出て来て、調べるのに苦労します。大分前に、銀行のATMのシステム開発をされている方が、NHKのラジオで、高齢者の方から、使いにくいし、分からないことが沢山あり過ぎるとの指摘を受けたと話されていましたが、その方は、自分たちの技術がまだまだ未熟なので、ご迷惑をおかけして申し訳ありません。これから、もっと勉強し、研究して誰でも使えるようにしていきますので、しばらくお待ちくださいとのようなことを話されていた記憶がありますが、本当に凄い方は、自分の今の限界や、課題をきちんと把握して、先を見据えておられるんだなと、関心と反省をしたことを、思い出しました。
下記は、調べるのに、現在一番苦労した漢字です。
広袤 コウボウ《「広」は東西の、「袤」は南北の長さの意》幅と長さ。広さ。面積。
今日は、豊橋から歩いて帰ってきたので、疲れているので(笑)もう寝ます(笑)
〜以上の原始的な形の対象関係した共通項は、そこでは対象がいうまでもないものとされることである。冷淡な対象が存在するとか、対象を協力的パートナーに変えるには“わがものにする作業”(work of conquest)をしなければならないとかはまだ念頭に浮かびもしない。この調和的二人関係において自分の願望、関心、要求の所有をゆるされるのは一方だけである。もう一方――とは対象あるいは友好的広袤だが――がまったく自動的に同一願望、関心、期待を持つべきなのは論をまたず、わざわざ調べる必要などないとされる。そのため、これを万能感の状態とよくいう。万能感という表現はいくらか見当外れだ。大体この状態には力量感が存在しない。力の必要、努力の必要など感じないのが実情である。万物が現に調和して存在するのだから。
万一主体対象間に何らかの障害や不協和音が発生した時の反応は何であろうか。それは派手で激烈な症状である。それはきわめて攻撃破壊的過程か、さもなくば深く解体的な過程の存在を推定せしめる態のものである。主体が仮借のないむきだしの攻撃破壊衝動の氾濫の中に没し去ったか、それとも自己を含む世界全体が粉々に砕け散ったかと怪しまれる。しかし、かりにさほど外部から乱されずに調和が維持されさえすれば、反応は結局穏和な、もの静かな、万事よしという感情に終わるので、目だたず、観察しようとしてもむつかしいくらいである。 このひどい差を成人言語で表現すればおおよそ次のようになるだろう。「私は、私にとって重要な万人万物からあらゆる点で愛され介護されなければならない。こちらからの努力や反対給付を求められることは一切抜きで、である。私自身の願望、関心、需要以外は問題にならない。私にとって重要な人物は皆、私と違った願望、関心、需要を抱いてもらっては困る。万一抱いているとしても、私の願望、関心、需要が優先する。なお、そのことが怨みやしこりのもとになるようなことは一切なしである。私の願望に合せることを私のパートナーは自分の喜び楽しみとしてくれなければならない。そうなってはじめて、私はいい気持ちになる。嬉しい。しあわせだ。それが最終目的で、そこから先はない。もしこうならなければ私にも恐るべきことだが、世界全体にとっても恐ろしいことになるぞ。」 この段階における主体と対象あるいは広袤間の調和関係持続は空気供給持続と同等に重要なことを念頭に置けば、両者間の調和が乱された時に派手で激烈な攻撃症状が出現することもなるほどと思われる。この一次的関係は主体にきわめて重要であるため、主体はこの関係に少しでも外から邪魔が入るのに耐えられない。何であろうと主体の欲求や願望に逆らう事態が発生する時は主体はただ自暴自棄手段に訴える以外に途はない。 この関係に憎悪が入り込むのはどんな具合にだろうか。憎悪は一次愛への無条件依存の延長線上にあり、ただ符号が負になっただけの違いである。私がかつて論文「愛と憎しみ」(1951年)で指摘したとおり、内面の変化だけでは憎悪への固着からの解放には至って不十分で周囲の協力が不可欠である。外的な事件によってたまたまその人の周囲がちょうどおあつらえむきに変化することもあるにはあるが稀有な場合で、その条件は実にきびしく幅が狭く、実現の確率は実に小さい。周囲がこのきびいしい条件に意図的かつ組織的に合わせてくれると期待してくれるとよい対人的な場はただ一つ、精神分析の場である。特に「新規蒔き直し」段階である。分析者が患者の原始・非現実の願望に正しい反応で巧みに対応できれば、それに助けられて患者は自分と自分の対象間の独裁的不公平性を緩和できる。患者の一次対象依存は、分析過程における新規蒔き直し段階で再演されるが、この不公平性が影をひそめるにつれていちじるしく減少しうる。消失することさえある。不公平性が減り、それに応じて依存も少なくなれば、そのための防衛も不要となる。こうなれば憎悪も大方は雲散霧消し、憎悪の消失とともに攻撃破壊への促迫もなくなってゆく。私の理論が間違っていなければ、患者にある点以下への退行を認める分析治療では、すべて、以下三型の対象関係全部に遭遇すると覚悟していなければならない。くり返せば、最原初的=調和的=相互滲透的渾然体と対象へのオクノフィリア的纏綿と対象亡き広袤へのフィロバティズム的選好との三者である。実際は私がこの理論に到達したのは別の経路からで、分析治療実践に際して、この三形式が私への関係においても周囲一般への関係においても観察されたからだ。私の理論構築は臨床観察所見をもとにしている。 この理論でナルシシズムがどこに位置づけられるか問題であろう。私の見解では、ナルシシズムはすべて、上記の関係のうちもっとも原始的な、調和的=相互滲透的渾然体に対して二次的である。ナルシシズム発生の直接原因はつねに個体環界間の擾乱にある、この擾乱が欲求不満となり、欲求不満の結果の一つとして、個体は、それまで自己と環界との調和的融合だったものに区別立てをするようになり、個体のエネルギー備給の一部を環界から撤収し、みずからの未熟な発達途上の自我に備給する。