うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

ぶどうと、いちごと、【ナルシシズム的障害の臨床像とそのメタ心理学の研究と、そして何よりもまずその治療は、基底欠損理論の光に照して接近するならば大幅に進歩するのではないかと期待している。】



昨日、すろーじゃむに行った時に、ぶどうを見たら、展葉間近でした。
いちごは沢山花が咲いていたので、今年も沢山採れそうですね!お天気続きなので、水をたっぷりかけて来ました。


 今日は、一日事務仕事をしていました。市役所に種類を持って行ったり、自宅でしたり、事務所に行ったり自転車での移動が多かったので、歩数は5,000歩でしたが、カロリーは400くらい行きました(笑)
 書類も制度も、厚労省から細かいことが直前まで出なかったりするのは、森友さんの件が原因でしょうか?働き方の件も、こんな間際にもめていると、役所で遅れると、末端の自分たちは、サービス残業だらけになってしまい、働き方改革どころじゃなくなります......。
 今日は思ったよりも仕事が捗りましたが、給与計算が待っていました.....。法人の事業報告や、年度末なのでまとめないといけない物がまだまだありますが、今日も職員さんが休んだ時に備えて、早く寝ようと思います(笑)



 本は、休憩がてらと、昼食を事務所に行った帰りにファミマで食べながら読みました(笑)春休みで中学生が賑やかでしたが.......。
本は第三部に入るところですが、アップはもう少しだい二部が続きます。もう少し後で出て来る下記を読むと、ますます分からなくなりますが、
『一次ナルシシズムと一次同一視とは同時的に存在しえない。』 もう一度、基底欠損理論を調べようと、ググったら、岡野憲一郎先生のブログ(http://kenokano.blogspot.jp/2011/01/blog-post_04.html)に、もう少し分かり易い記述がありました。岡野先生の本を読めば、分かり易く記述して下さっているように感じました。バリントの本(再版)がもうすぐ出るみたいです。7,000円以上しますが......。


『〜一番説得力があるのが、彼が同じページで彼があげている例えである。彼はこのfault という表現は、地質学や結晶学でも使われているという。それは「全体の構造の中に突如見られる不規則性を意味し、その規則性は普段は姿を現さないが、ストレスがかかると全体の構造の崩壊を導くようなものである」という。
彼がこの basic fault を別の箇所で「外傷」と表現していることから、この結晶の不規則性は、ある種のトラウマとして位置づけられるべきものであることがわかる。しかし依然として、それは見えにくい、隠微な形で生じるそれである。バリントはそれを母親からの加害行為、という明確な表現のされ方などはしていないこともわかるだろう。 それは結晶構造の本来の問題かもしれないし、そこに加わった外的な影響、それも傍目にはわからないような微妙な影響かも知れない。恐らくその両者の相互作用で生じたものであり、それは隠微でかつ重大な亀裂がそこから将来生じるかもしれないような問題を残してしまったのだ。それを明確な外傷、対人外傷と表現できるものかといえば違うだろう。それは何らかの環境との行き違いであり、多分に相互的なものであろう。しかし患者にとっては主観的には、養育者が自分を「駄目にした、なすべきことを怠った」という印象を持つ。つまり被害者として自分を意識する可能性が高いのである・・・・。〜』


 こちらを読ませて頂いてから、気合を入れ直して(笑)何度も読み返しています。





 〜重要な追加をここでしよう。グリネッカーは臨床的に観察可能な現象を記述し、治療上の勧告をしているが、それはそっくりそのまま、第一部に述べた基底欠損領域に属する事態の解説に転用できそうである。一方すなわち治療者が他方すなわち患者にいつでも“波長を合わせ”ていなければならない絶対要請があり、葛藤が欠如し、通常形式の解釈はそう重要でないような排他的二人関係というものが存在する。ナルシシズム的障害の臨床像とそのメタ心理学の研究と、そして何よりもまずその治療は、基底欠損理論の光に照して接近するならば大幅に進歩するのではないかと期待している。

 〜この新接近法の重要性は、ヨフェ W.G.Joffe とザンドラー Joseph Sandlerによる最近の、一点を除いてはすぐれた論文「ナルシシズムへの諸障害」(一九六五年)をみればなるほどと判るであろう。二人の研究者の主な関心事は、ナルシシズムとその障害を理解するためには欲動の満足(grantification――ドイツ語ではBefriedigung文字通りには穏和化pacification)に加えて、「万事よしという理想状態よりの情動的、表象的な面における偏り」も考えに入れておかねばならないことを示すにある。この“万事よしという理想状態”(ideal state of well−being)とは、第一二章においてとりあげるが、一次愛の究極目標、いや人間的努力の一切の究極目標であって。それをめざす努力が初期段階においての何らかの重症の障害を受ければ、それぞれ特異的な基底欠損の成立の糸口となる。この“万事よしという理想状態”の力動構造の検討を怠ったためにヨフェとザンドラーはその持つ対象関連性を見落とし。それ以上の証明をぬきでただちに一次ナルシシズムであるとしてしまった。もっとも、そうとは明文で述べて居ないが、二人のとりあげているのは、二次ナルシシズムに属する現象に関したものばかりである。したがって、私は実践上は二名の結論にすべて賛同すると言えばよい。 この章に述べたのは、要するに、分裂病者が、理論上予想されるところに反して、もっとも退行した状態にあってさえも、周囲に対する反応能力をもち、したがって、分析治療の試みの射程内にあることである。反応はかよわく、かすかだが、それは分裂病者はどうしても“調和的”な関係を求めざるを得ないからである。このことは、分裂病者のナルシシズム的引きこもりが、欲求不満に続発した二次的なものであることを示唆する。この章では他にアルコール中毒者と“深く擾乱”というか“ナルシシズム的な”患者との状態を手短に吟味したが、やはりそのすがたは同一であった。すなわち、どこでも同じく調和への原始的な欲求があり、一般に相手から(特に分析者から)の性急な求めによる欲求不満があり、二次ナルシシズムへの引きこもりがある。