うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日の日中と、入浴リフトのリモコンと、【母親の最終的な課題は、乳児を徐々に脱錯覚disillusionさせていくことだが、初めに錯覚のための十分な機会を与えることができないとしたら、彼女に成功の望みはない。】



 今日の日中は、風船バレーで盛り上がっていました!
皆さん上手なので、相手をしていた女性職員がはーはー言っていました(笑)
蔵王山プロジェクションマッピングにも行ったり、絵を描いたりもしました!
自分は、アウトドア派なので、お天気が良い日は、外でのアクティビティが好きです。


 すろーじゃむの入浴リフトのリモコンが来ました。設定だけで25,000円との事でしたので、自分でしました(笑)
きちんと動いたので、良かったです。
 でも、入浴リフトのリモコンなのに、防水じゃないってどういうこと???って思うのは自分だけでしょうか?車ならリコール物ですよね?
ミクニさん、防水仕様にして下さいね!48,000円もして、湿気に弱いなんて.......。
 うたたねのリモコンはリフトについていて、ずっと浴室にありますが、6年間何もないのに、すろーじゃむのは、保管場所が脱衣場で、毎回換気して乾燥させていますが、不思議ですね......。しかも新しいタイプ.....。とちょっと悔しかったので、愚痴ってみました(笑)
 取り敢えず、ビニール袋の中に入れて使いました(笑)



 今日は、ゆっくりめの出勤でしたが、送迎のミスがあり、ファミマで本を読んでいたら親分に呼びつけられました(笑)

 今回は、下記が一番心に残りました。現場での支援も、本当はそうなのかもしれませんんね。
自分達も、脱錯覚を目指して支援を行っていますが、そうは簡単には行きません。でも、諦めずに、人や何かのせいにしないで、やっていたら、必ずあっそうか!と膝を叩ける日がくるときもあります。
 
『母親の最終的な課題は、乳児を徐々に脱錯覚disillusionさせていくことだが、初めに錯覚のための十分な機会を与えることができないとしたら、彼女に成功の望みはない。』



錯覚と錯覚の価値
最初のうちは母親がほとんど100%適応することにより、彼女の乳房が乳児の一部であるという錯覚のための機会を与える。それは、いうなれば魔術的な支配の下にある。同様のことが、育児全般の点からも、興奮状態の合間の静かな時間における乳児の世話の点からも言える。万能感が、事実上の体験に近いものとなっている。母親の最終的な課題は、乳児を徐々に脱錯覚disillusionさせていくことだが、初めに錯覚のための十分な機会を与えることができないとしたら、彼女に成功の望みはない。 別の言い方をするならば、乳児の愛する能力から、またはニードから(と言えると思うが)、乳児は何度も何度も創造されるのである。乳児の中に、われわれが母親の乳房と呼んでいる主観的現象が発達していく。乳児が創造しようとしているちょうどその場所に、そして適切な瞬間に、母親は実際の乳房を置くのである。 このようにしていながら人類は生まれた時から、客観的に知覚されるものと主観的に思い懐かれるconceivedものとの関係という問題に関わっているわけであり、母親にほど良く始めてもらえなかった人間にとっては、この問題を解決する際に健康というものを欠くことになる。私が言及している中間領域とは、原初的創造性と現実検討に基づく客観的知覚との間において乳幼児に分け与えられる領域のことである。移行現象は錯覚の使用の早期段階を表しているが、これがないと、自分にとって外にあるものとして他者から知覚される対象との関係という発想が、人間にとって意味をもたなくなる。〜


つまり、すべての個人の発達において、早期の多少理論的な時点で、母親によって提供された特定の設定におかれた乳児は、本能的緊張から生まれて増大していくニードに何かが応じてくれるだろう、という考えを思い懐くことができる。何が創造されるべきかを、乳児が最初知っているとは言えない。この時点で、やがて母親が姿を現すpresent herself〔彼女自身を差し出す−訳者〕。普通のやり方で、母親は乳房を与えて、授乳に駆り立てる潜在的な力を投入していく。乳児のニーズへの母親の適応により、それがほど良い場合は、自分の創造する能力に対応する外的現実があるのだ、という錯覚を乳児は持つことができる。言い換えれば、母親の供給するものと、乳児が思い懐くかもしれないものとの間が重なり合うoverlapのである。観察者には、子どもは母親が実際に差し出しているものを知覚しているように見えるが、それが真実のすべてではない。乳児は、乳房をちょうどその時そこに創造できるかぎりにおいてのみ、乳房を知覚するのである。母親と乳児の間には、相互交流interchangeがあるわけではない。心理学的に、乳児は乳児の一部である乳房から乳を受け取り、母親は自分の一部である乳児に乳を与えている。心理学における相互交流という発想は、錯覚に基づいたものなのである。