うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

ストレッチ教室と、展示の準備と、【まさに離乳の背後に控えているのが、脱錯覚disillusionmentという大きな主題である。離乳するということは、それ以前の授乳が成功していたということを意味し、脱錯覚は錯覚を得る機会がうまく提供されたことを意味しているのである。】


今日は、彦坂先生のストレッチ教室でした!
毎月して頂いているのですが、中々写真が撮れず、久し振りに撮れた様で、親分から送られてきました。
 たくちゃんは、応援団でした(笑)
常連組の、まりちゃん、ゆうちゃん、井上さんは大分馴れて、スムーズに出来ているとのことでした。継続は力なりですね!





 親分が、3月の商工さんでの展示の準備をしていました。
こちらは、あまのっちの作品です。
 昨日、神戸館さんに、チャリティーで頂いた寄付金で、ガス乾燥機を買わせて頂き、その報告がのったカーグ通信を張ってもらいに行ったら、今年も積極的に作品を集めはしないけれども、チャリティーをして下さるとのお話を頂き、感謝です!
 
 今日は、なんやかんやしていたら(笑)一日が過ぎました。
シフトでは休みでしたが、事務所に行ったついでに、多量の洗濯物の取り入れを手伝ったりしていました。

 本は、夕方、うたたねから帰る時に、休憩がてらファミマで読みました。
この辺をきちんと勉強しないと、ウィニコットの理論が分からない気がしますので、何度も読み返しています。


Chapter 5
精神病と子どもの世話(1952)
本稿で私は、児童期にはある程度の精神病がよく見られるものであることを、示そう、思う。しかしながら、子どもの世話に特有な日常的な困難の中に覆い隠されていて、そのやり方のためにそれが気づかれないのである。環境が情緒発達の歪みを包み隠したり、それに対処したりすることに失敗し、子どもが一定の防衛線に沿って自らを建て直す必要が生じて、その防衛線が1つの疾患単位として姿を現すようになった時に、診断が下される。この理論は、自分の乳児に対する世話に没頭する母親だけが自然に身につけている技術によって、人格の精神的な健康は乳幼児期の最早期にその基礎を置かれる、ということを前提としている。私は、乳児の情緒発達の早期の諸段階においてもたらされる課題について、簡単な描写を行うことにするが、その課題とはほど良い情緒的環境にあって初めて幼児が達成するものなのである。〜

身体的な側面ばかりに注目し、精神面を忘れる小児科医に対して、私はどうすることもできない。現在というのはそういう時期であるし、身体的側面に豊かな恩恵が分け与えられてきたことは、誰も否定はできないのである。 ここで私が関心をもつのは精神psycheであって、身体については、ただし二次的にしか扱わないことにする。しかしそれでも、私は小児科医であることに変わりはないし、小児科的な見地からは、精神的健康はそれまでの発達の成果を抜きにしてはあり得ないものなのである。個々の子どもの精神的健康は、母親が自分の子の世話に没頭している間に、母親によってその基礎を築かれる。献身devotionという言葉は、感傷的なニュアンスとは切り離して、母親がそれなしでは何らの貢献も果たせないような本質的な姿勢、すなわち乳児のニーズへの感受性豊かで積極的な適応sensitive and activeadaptationを記述するために、用いることができる。そして、そのニーズとは最初は絶対的なものである。この献身という語はまた、母親が自らの課題に成功するためには利口である必要はない、ということをわれわれに思い出させてくれるのである。 精神的健康とはすなわち個人的な情緒的成長の連続性を可能にするような、連続的な世話の所産なのである。家族の中で全体的な人間wholehuman beingとしての位置を子どもが占めはじめる時期に現れる早期の対人関係に、神経症は端を発する、ということはすでに皆が認めるところとなっている。言い換えれば、社会化されて、神経症ではないという意味における個人の健康は、子どもがよちよち歩きをする時期に、両親によって基礎づけられるのである。しかしこの言い方は、乳幼児期の正常な発達を前提としている。精神病的と認められ、そのようなラベルを貼られるような何かが、子どもが明らかに全体的人格として他の全体的人格と総合的な関係を結べるようになる前に起こる情緒発達の歪みにも端を発することについては、さほど知られているわけではない(そして実際、依然として証明すべきことなのである)。この理論は、他に比較してある種の精神病者たちに関しては、特に当てはまる。これらの問題を専門に研究する人びとがきわめて明確に理解しているのは、(反応性の抑うつや気分の変化を示すという意味で)抑うつ的になれる能力が、離乳が意味をもってくる年代に達した子どもによって、健康な状態で獲得される、ということである。抑うつは、思いやり、憐れみ、罪などと連携しているが、抑うつ的な気分においては無意識的な情動の比較的大きな部分が関わってくる。思いやりの気持ちや悲しみの気持ちを持つ能力、そして喪失に対しては時間が経つにつれて回復していくといった、組織化された仕方で反応するという能力は、健全な成長にとってきわめて重要な発達段階である。そしてこの能力は、注意深い離乳の取り扱いにより基礎づけられるのだが、ここでの離乳とは、大雑把に言って9〜18ヵ月の幼児の取り扱いという、非常に広い意味で用いている。本論では、この問題について。きわめて注意深く行われた研究に触れておくことぐらいしかできない。その研究とは、精神病という術語がさまざまな種類のうつ病や、躁うつ型の障害を含む限りは、精神病の研究に確かに関連している。この点の理解は、フロイトの論文『悲哀とメランコリー』(1917)に始まり、その主題は他の人びと、特にAbraham(1924),Klein(1934),Ricman(1928)により発展されてきた。またクラインの理論を拡張し、ある種の被害妄想的な組織化の起源を扱ったものもある。“情緒発達における抑うつポジション”の健康的な達成という概念(Klein)は、逆に言うなら、以前の健康な発達を前提としているのであり、私が本論で言及したいと思っているのは、最早期の、もっとも原初的な段階なのである。 まさに離乳の背後に控えているのが、脱錯覚disillusionmentという大きな主題である。離乳するということは、それ以前の授乳が成功していたということを意味し、脱錯覚は錯覚を得る機会がうまく提供されたことを意味しているのである。