うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日の投げ入れ(笑)と、田原文化祭の音出しと、【精神分析での“観察”は、すでに起こってしまったことやこれから起ころうとしていることではなく、今現在起こっていることにかかわるものである。】


 親分が金沢で1,000円で買った徳利に、台風の時に折れた多肉植物を投げ入れてみました。
色が合いそうだったので入れましたが、ちょっと貧弱ですね。鉢に植えている、折れていない立派なものをとも思いましたが、鉢から折れて落ちている方を選ばせて頂きました。写真の全体的な色合いが気に入っています。



 今日は日中の仕事で、浜松までドライブに行き、外食をしてきました。
入浴介助等を済ませてから、明日の田原市文化祭で使う機材を搬入し、音出しをして来ました。
 大きなホールは、久し振りなので、不安がありましたが、音の跳ね返りが安定していて、直ぐに音を作ることができました。
いつも使わせて頂いている音楽練習室は、音を作るのが非常に困難なので、いつもこんなに耳が悪かったっけ?と落ち込んでしまっていました(笑)
 時々は、きちんとしたホールで弾きたいですね!




 本は、早めに出て、ファミマで読みました。
難しいですが、いつもの如く(笑)自分が理解しやすいように、現場に使えるように勝手に解釈(それをしてはいけないと、ビオンがいっていますが....)して、自分に納得させています(笑)。 
 一人で患者さんを見ているなら、記録は要らないのかもいらないのかも知れませんが、うたたねのように、職員が常時(毎日)入れ替わる施設では、記録は必要ですね。
でも、本当にそうなのか?言い方は悪いですが、疑って自分の目や耳や皮膚で感じるようにしてほしいといつも思っています。職員だけでなく、利用者さんも相手によって言動・行動を変えて来られるので、いつも今ここで起きていることを感じながら支援を行うようにしてほしいとも思っています。


1.記憶と欲望についての覚書
 ウィルフレッド・ビオン
 精神分析での“観察”は、すでに起こってしまったことやこれから起ころうとしていることではなく、今現在起こっていることにかかわるものである。もっと言えば、精神分析での“観察”は、感覚印象にも感覚の対象群のいずれにもかかわっていない。精神分析家なら誰もが、心的現実の抑うつや不安や恐怖といった様相を知っている。もっとも、それらの様相がうまく名付けられているものであろうとなかろうと、また、うまく名付けうるものであろうとなかろうとであるが。これらが精神分析家の現実の世界である。その現実性を精神分析家は信じて疑わない。だが、ひとつ例をとれば、不安には形も臭いも味もない。すなわち、情緒体験に付随する感覚的なものについての気づきが、精神分析家が一体にならなければならない現実を直観していくのに妨げとなる。
 精神分析家が立ち会うすべてのセッションには歴史も未来もあってはならない。
 患者について“知られている”ことにそれ以上の重要性はない。それは誤っているか的外れなものである。それが患者と精神分析家によって“知られている”ことであるならば、それは用済みである。それが、一人は知っているがもう一人は知らないなら、防衛かグリッドのカテゴリーの2要素(Bion 1963,1965)が作動している。どんなセッションにおいても唯一重要な点とは、知られていないことである。それを直観するのをそらすいかなるものも許されてはならない。 いかなるセッションにおいても、進展evolutionは起こる。なにかが、暗闇や形のないところから進展してくる。進展が表づらだけでは記憶に似ていることはあるが、いったん、それが体験されたならば、決して記憶と見まごうことはない。それは、そのまま心に生き生きと残っているか、さもなくば、いわく言い難く突然として消えるという性質を、夢と共有している。この進展こそ、精神分析家がいつでも解釈できるよう心がけておかなければならないものである。 これをなすために、精神分析家は彼の思考を訓練しておく必要がある。まっ先に言っておきたいことは、精神分析家なら誰もが知っているように、精神分析家は可能な限り徹底した分析を体験していなければならない。ここで言っていることが、そのことに疑いを向けるものとして取られてはならない。2番目に、精神分析家は油断することなく記憶を避けるように修練しなければならない。メモは記録できることがらに限るべきである――面接予約の表はまごうかたない例である。