うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日の散歩と、【彼女は子どもたちの遊び――昇華された活動――は不安や願望の象徴的表現であることを示そうとした。】


今日は、金曜日には珍しく、日中の勤務でした。
午前中は、初立池を1時間、約1.8周しました!6,000歩くらい歩きました。南京ハゼの実が大きくなっていました!

 午後からは、雨でしたので、蔵王山の展望台の階段昇降をしたり、展望室をぐるぐる回ったりしました。
最終的には約10,000歩歩きました。多い時は20,000歩くらい歩きますが、お天気が悪かったので無理でした。


 職員の都合で、急遽遅番に入って下さった方、事務で入って下さっていたのに、料理等に変更して下さった方に感謝です。



 季節の変わり目で、精神に障がいをお持ちの方には辛い季節になりました。毎年同じ時期に、同じようなことを繰り返してしまい、ご本人さんも、周囲の方々も大変な思いをされていると思われます。今朝、NHKのニュースで、精神に障がいをお持ちの方々を病院やサービスに繋げるかたの事をされていました。大変な仕事をされている様で、ただただ、頭の下がる思いでした。ちょうど、 ハンナ・スィーガルの箇所を読んでいたので、象徴という言葉とその繰り返しが頭の中に浮かんできました。

 乳幼児の時の象徴や、大人になってからの象徴、以前嫌な事があった時の状態を身体が覚えてしまっていて、彼岸花が彼岸前にきちんと咲くように、その時期や、その時と同じような状態を体感しなくても、他人が同じような状況になっているのを見るだけでもその象徴を感じてしまって、躁的防衛や妄想ー分裂ポジションに陥ってしまうことがあります。そうような時に、どうやって抑うつポジションに持って行けるのか?(例えが簡単すぎますが......)その勉強をするために最近は、分析関係の本を読んでいるのかも知れませんね。そのためにも、象徴について考える機会を与えて頂いたと感謝しています。



1.象徴形成について
 ハンナ・スィーガル
ジョーンズは彼の論文(1916)のなかで、無意識の象徴性を他の“間接的な表象”の型から区別し、真の無意識の象徴性はついて次の見解を述べた。
(1)象徴は意識から抑圧されているものを表象し、そして、象徴性の全過程は無意識。営まれている。

(2)すべての象徴を「自己、直接の血縁関係、出生、生、死の現象」の観念を表象している。
(3)ひとつの象徴はある一定の意味をもつ。多くの象徴が同一の抑圧された観念を表象していることもある。だがですある特定の象徴は普遍性のある、ある一定の意味をもっている。
(4)「抑圧をする動きと抑圧されるもの」との間の精神内葛藤の結果として象徴化は生じてくる。それのみならず、「抑圧されたものだけが象徴化される。すなわち、抑圧されたものだけが象徴化される必要がある」。

 ジョーンズ、さらに昇華と象徴化の間を識別した。「象徴に関していうと、象徴化された観念に備給されている情動が、昇華という用語にあてられているそうした質に変容できないとわかったときに象徴は生じてくる」と彼は述べた。 ジョーンズの論点を要約してみると、葛藤ゆえにある欲望が断念されねばならず、それが抑圧されるとき、それは象徴的なやり方でそれ自身を表現するであろうし、断念されねばならなかった欲望の対象はある象徴によって置き換えられると言うことができよう。 その後の分析の成果、なかでも小さな子どもたちとの遊戯分析はジョーンズの公式のいくつかの主要な点を十分に確証した。子どもの最初の関心と衝動は両親の身体と自分自身の身体に向けられる。そうして象徴化を通じてすべてのさらなる関心を引き起こすものは無意識のなかに存在するそれらの対象群や衝動なのである。けれどもで昇華のないところに象徴が形づくられるとのジョーンズの見解はすぐに反論を引き起こした。実際のところ、フロイトと同様にジョーンズは芸術作品の内容を分析する興味深い論文を多く書いた。メラニー・クラインは1923年の論文『子どものリビドー発達における学校の役割』で象徴化と昇華との関係についてのこの形成に異議を唱えた。彼女は子どもたちの遊び――昇華された活動――は不安や願望の象徴的表現であることを示そうとした。 私たちはそれを用語の上の疑問点と考え、情動の変化を伴うことなしに対象に取って代わっているそれらの代理物のみを象徴と呼ぶこのジョーンズの見解を受け入れてもよかろう。他方、その定義を昇華のなかで使用されている象徴にわたるまで拡げることの利益は大きい。なによりもまず、この広義の定義は一般的な言語学的慣用により一致する。ジョーンズの概念は他の科学や日常語で“象徴”と呼ばれるものの大部分を除外している。第2に、私はこの点について後に検討を加えるが、ジョーンズによって記載された原初的な象徴から、自己表現や交流、発見、創造において使われる象徴への連続した発達があるようである。第3に、広義の象徴性の概念を認めないことには、心のなかの早期の原初的な願望や過程と個人のその後の発達との間の関連を立証することが難しい。分析的見解では、外界での早期の対象群から新たな対象群へと情動や関心が置き換えられることによって決定されている。そして、実際のところ、そのような置き換えが象徴化を通じて以外にはどのようにしてできるだろうか?