うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

うたたね茶会と、うたたね工事と、【あまりにもいつでも手に入る対象は好奇心や知的関心を刺激しないかもしれませんが、あまりにも手の届かない対象も同じ結果になるかもしれないと私には思われます。】

 昨夜、水ようかんを頂いたので、久し振りにうたたね茶会をやらせて頂きました。
職員さんも参加させていただきました。
 久しぶりに頂くと、美味しく感じましたが、安いお抹茶だったので、秋には美味しいお抹茶を買ってきて、美味しいお薄を頂きたいですね!




 うたたねは、今日の夜だけお休みなので、玄関の袖壁を崩して、職員用ロッカーが置いてある縁側に、玄関から直に行けるように工事が始まりました。
明日、完成の予定です。
 設計士さんも大工さんの応援をされていました! 総合病院などの設計もされている方なのに、頭が下がりました。
 近場の田んぼの稲も、収穫に向けて頭を垂れて来ています!


 夜勤明けでなんやかんやしていたら、帰宅が18時過ぎになってしまいましたが、用事と用事の間で、頑張って本を読ませて頂きました。
アップはその箇所です。
 下記が今日、一番印象に残ったところでした。
 人間は見られていないと、存在がなくなると言われているのを、何回もしつこく(笑)アップしていますが、下記も同じことを言いたいのだなと思いました。
誰でも必要とされていなかったら、生きている価値を見つける事が難しくなりますね.....。かといって、自分をアピールし過ぎるのも考え物ですが.....。

『〜子どもが自分が隠れたり迷っているときに見つけだしてくれ、自分がいてほしいと思い、自分を見つけたいと思っている人がいることを発見することの快と喜び〜』


Freud 以来、精神分析は不在の対象という概念に非常に没頭してきました(O’Shaughnessy 1964)。多くの臨床研究や乳児の詳細な観察が、愛する対象が視界から消えても持続しうることへの信頼を持つことのできる力は、認知的発達と象徴的発達にとって、また人生の苦痛に満ちた喪失や危機に耐えて生きていく能力にとって、つまり心的健康一般にとって極めて重要であることを示唆してきました。分離性や喪失や痛みの経験の中には、この発達における決定的な要素であるように思われるものがあります。しかし、「対象恒常性」という認知的問題に関する子どもの発達研究は、どのような場合に「視界から消えること」が「心から消えること」を意味し、どのような場合にそうではないのかという問題は、高度に複雑であると示唆してきました(Bower 1974)。喪失の体験以外に不可欠な要素があるように思われます。一歳前後の赤ん坊は、自分の目の前で逆さまに置かれたカップの中に隠された物体を見つけることはできなかたのですが(有名なPiaget の実験)、カップにほほえんでいる顔がついていればほとんど問題なくできました。赤ん坊たちはまた、実験者が彼らの方に身をかがめ、子どもの視線を捉え、「ほら、がんばって見つけてごらん」というとき、課題がより容易だったのでした。研究者たちは、このようにすれば子どもは実験者が本当に自分が玩具を見つけることを望んでいるし、実験者は玩具を取り上げて隠しているのではなく、単に自分が見つけるために隠していると思うようになるようであると指摘しています(Freeman et al 1980)。明らかに、あまりにもいつでも手に入る対象は好奇心や知的関心を刺激しないかもしれませんが、あまりにも手の届かない対象も同じ結果になるかもしれないと私には思われます。



臨床例
極度に不安な子どもを除いて、子どもは全てかくれんぼで遊ぶことがすきです。その快は通常情動が複雑に混じり合っており、その混じっているという事実そのものがおそら心地よいのでしょう。そこには、遊びで表現された喪失に関する恐怖や興奮や不安がありますが、また見つける喜びと見つけられる喜びがあります。子どもが自分が隠れたり迷っているときに見つけだしてくれ、自分がいてほしいと思い、自分を見つけたいと思っている人がいることを発見することの快と喜びは、自己愛的ないし防衛的動機から生じるとは限りません。それは通常の発達の自然で必要な部分ですし、モリー心理療法は彼女に取って極めて治療的効果があったように思われます。私は、「喪の仕事」というFerudの偉大な理論の対極をなし、同様の比重と尊厳を持つような言葉ないし芸年を探し求めてきました。喜び、祝福、感謝などの言葉は、生まれてこの方ずっと病的な抑うつ状態であったかもしれない子どもの中の希望の誕生と発達の過程がいかに長くゆっくりとしたものか(ゆっくりとしている点で喪の過程と似ています)伝わりません。私が思いつく限り最も近いのは、「新生の仕事(work of regeneration)」というような言葉ですし、DAniel SternとGeprge Herbertの言葉を用いれば、「自分のしぼんだ心が新緑を含んでいることのゆっくりとした決定的な発見」です。