うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

ダージリン・ファースト・フラッシュと、【Winncott の移行対象という概念は、発達的に象徴的等価物と真の象徴の間に位置づけられます。彼は、全て自分に属しているという純粋に自己愛的な錯覚と、対象から分離しており対象に多くを負っているという真の象徴機能が可能な成熟した気づきとの間にある、中間領域として移行対象を記載しています。】


 ダージリン・ファースト・フラッシュを頂きました。本当は、セカンド・フラッシュを頂きたかったのですが、ご案内の様に、ダージリンが大変なことになっていて、無理なようですね......。まあ、なくても生活に支障はありませんが、紅茶好きにしてみれば淋しい限りです。お店の方に聞いても、暫く入荷は見込めないとのことでした。

 今日は休みでゆっくりしようと思っていましたが、用事を作ってしまい、9月まではちょっと忙しくなってしまいました.....。まあ、自業自得ですね(笑)
暇なわけではありませんが、元々貧乏人なので、貧乏暇なし状態にしたいのでしょうか?(笑)


 用事の間に本を読ませて頂きました。
最近はウィニコットの復習になっていますが、こちらも本当に分かり易く記述してくれているので、この本だけでも、フロイト・クライン・ウィニコットの概要が理解できるかもしれません。本当に読む価値のある本だと今日も思いました。

 今日は、下記が一番印象に残った箇所です。次回に続きをアップ出来たらと思っています。似たような言葉は良く目にします。

『多くの精神分析理論は、意義深い刺激を与え多くのことを教えてくれるのは人生における否定的体験であるということ、また快は錯覚を育み、不快は「現実」という偉大な外界に目を覚まさせ注意を促すということを主張します。』




〜Winncott の移行対象という概念は、発達的に象徴的等価物と真の象徴の間に位置づけられます。彼は、全て自分に属しているという純粋に自己愛的な錯覚と、対象から分離しており対象に多くを負っているという真の象徴機能が可能な成熟した気づきとの間にある、中間領域として移行対象を記載しています。したがって、もし子どもが熊のぬいぐるみを移行対象として用いているならば、その子どもはぬいぐるみは一次対象(乳房または母親)とは異なることをある部分では認知していますが、別の部分では認知していませんし、さらにWinncott によれば、子どもはあまりに早急に認知させられるべきではありません。Winncott は、移行対象が子どもの最初の「私でない」所有物であることを強調し、そしてこれはそっとしておかれなければならない領域であり、休息の場として、すなわち必要であるしまた尊重されるべき逆説として存在すべき領域であると言います。彼が言いたいのは、治療者は患者に、ぬいぐるみはお母さんではなく、喪失や分離や依存に対する防衛に過ぎないと絶えず思い起こさせるべきではないということであると思います。彼は、このようなやり方はそのもう片方の意味、すなわち移行対象は子どもが独立した所有物を持つ最初の主要な体験であるという意味をないがしろにするのではないかと懸念しているように思われます。そして、そのような意味をないがしろにすることは、子どもの創造性や発達を阻害する可能性があります。結局のところ、ぬいぐるみは子ども自身のものなのです。私でないものを子どもが所有することをWinncott が強調することは、実はSegal が象徴性の理論の中で記述している、二つの異なった対象関係であることを思い起こさせるのに役立ちます。つまり、中間または移行段階にいる子どもは、まさに自分自身のものである対象の体験をしますが、また所有者としての自分自身も体験します。象徴性が獲得される最終段階、すなわち分化の段階は、全てが等価で所有されている最初の段階よりも成熟したものとSegal は見なしました。Winncott も考えたように、乳児が錯覚による所有の状態から離乳と喪失の状態にまで移行する場合にもこれと同じことが言えるでしょう。
 しかしながら、剥奪児にとっては状況は異なるかもしれません。剥奪児はこのような錯覚を持ったことがほとんどないかもしれませんし、全く異なった方向から出発したのかもしれません。剥奪児の象徴は、Beckett の『勝負の終わり(endgame)』と同じくらい荒涼としているかもしれません。ボールやぬいぐるみが象徴的意味を獲得しそれによって光輝いたことが全くなかったかもしれません。このような子どもや赤ん坊は、真新しい玩具があっても散漫で空っぽな遊びしかしないでしょう。このような子どもは、一体性の錯覚を持っておらずも空虚でとりとめのない空っぽの光景、すなわち灰から出発しているのかもしれません。このような子どもの所有の空想、そして希求されていた対象を勝ち得ることやそれを喜ばせることやそれと一緒になることは、万能感ではなく力や有能感を認める解釈、仮の元気づけ(reassurance)ではなく真の元気づけ(assurance)を当然にも必要としていることを認める解釈で答えられる必要があります。剥奪児が援助を得ることで移行レベルに達するのは、Segal やWinncott によって述べられた状態からではなく、ある点でそれに先行する状態からかもしれません。その場合、剥奪児は、不在になりうる対象の特性ではなく、戻ってくる対象の特性や対象を戻ってこさせることのできる自分の力について学ぶ過程にあるのかもしれません。日没の象徴は必要ですが、新しい朝の象徴も必要です。これが象徴性の理論に付加される必要があるかもしれない四番目の可能性です。虐待児は状況象徴的等価視から移行段階を経て真の象徴形成に至るのではなく、象徴の空虚さから移行段階を経て真の象徴形成に至るのかもしれません。後者の場合にその成長を促すためには、治療者の解釈は異なった点を強調する必要があります。

現実原則
 多くの精神分析理論は、意義深い刺激を与え多くのことを教えてくれるのは人生における否定的体験であるということ、また快は錯覚を育み、不快は「現実」という偉大な外界に目を覚まさせ注意を促すということを主張します。