うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

かき氷と、【死は生よりも、喪失は獲得よりも、より真実だなどということがあるのでしょうか。また、両者がいずれも人間存在の根本的な両義性の部分であるというのは間違いなのでしょうか。】


 毎日のようにピンタレストがきて、最近、自分が選択する画像がマンネリ化していたので、自分の趣味ではない所に入っていったら、未知の(自分的にはw)世界がありました。色々考えながらPCに向かっていたので、久し振りに大笑いさせていただきました。

 もうひと笑いw!




 今日も日中は賑やかでした!
たかちゃんリクエストのアプレシオは、他の職員さんのご協力の下、なんとか行けましたが、色々あり、午前中に目標の歩数とカロリーが一気にクリアーできていました(笑)

 午後からたかちゃんはテレビを見たいとのことで、うたたねに戻りましたが、その他のアプレシオメンバーは、すろーじゃむの大きなお風呂に入りに行きました。
大きいので、お湯を張るのに時間がかかるので、お湯をいれたあと、伊良湖のかわぐちさんまで、かき氷を食べに行きました!
 頭がきーんとこられた方もいたようで、きーんと(笑)何度も言われていました。今どきの、北海道の雪のような氷に皆さん美味しい!といっていて、ご家族とも来たいと言っていました。
 また違うメンバーとも来たいなと思いました!
大きなお風呂は、皆さんに大人気で、声掛けしても中々出て頂けなくて、今日は少し焦りました(笑)
 何とか夕食の時間までには帰ることが出来ました!
夕食は、焼肉で美味しそうでしたが、おっちゃんは記録を書いて、お金の処理をしてご馳走を横目に帰って来ました......。
 明日は夜勤なので、ご馳走がいただけます!


 今日は、5時起きでしたが、用事があり、本が読めず早番に入りました。
アップは、昨日読んだ箇所です。今回はWinncottの復習です。

〜「躁的防衛」と題される1935年の論文で、Winncottは躁的防衛というKleinの概念を彼自身が拡大し理解したのは、自分が内的現実というものについての認識を徐々に深めたことと合致していたとはっきり述べています。彼は、この防衛に特徴的な、万能感的な操作やコントロール、価値切り下げについて述べていますが、しかし、普通の人々がいかに頻繁にそうしたことを用いているということをどう説明するかという点で、困惑しているように思われました。


 万能感に満ちた操作、コントロール、価値切り下げなどを減らすことを正常性に、つまり誰しもが日常生活に使うような幾分かの躁的防衛に、結びつけることは可能であるに違いない。たとえば、ある人がミュージックホールにいて、激しく踊るように訓練を受けたダンサーたちが舞台に現われるとする〔これは1935年である〕。ここには原光景があるということも、露出症があると言うことも、肛門的コントロールがあると言うことも、規律に対するマゾヒスティックな服従があると言うことも、超自我に対する挑戦があると言うこともできる。そして、遅かれ早かれ付け加えることになるのは、ここには生命があるということである。そのパフォーマンスにおける重要な点は、死んでいることへの否認、つまり抑うつ的な内なる死という考えに対する防衛であり、性愛化というものは二次的なものであると言えないだろうか。(p.131)


 確かにこれは死に対する一つの防衛ですが、しかし同時に、それが生きていることの確証であり、表現であってはいけないのでしょうか。死は生よりも、喪失は獲得よりも、より真実だなどということがあるのでしょうか。また、両者がいずれも人間存在の根本的な両義性の部分であるというのは間違いなのでしょうか。Winncottは次に、延々とつけっぱなしにされるラジオ放送について問うています。「消えることのない騒音と消されることのない灯りに満ちたロンドンのような街で生活するということについては、どうであろうか。それらはいずれも、内なる死に対して現実によって安心を確保すること、そして正常なものでありうる躁的な防衛の用い方を例証しているのである。」ここで彼は、躁的な反応の防衛的な機能を強調しています。
 Winncottは、さらに、非常に明晰に、抑うつ感情のある側面に対する安心保障として、さまざまな対立観念に関する彼のリストには、二つのカテゴリーがあり、一つは抑うつ的で、もう一つは「上昇的(ascensive)」です。すなわち、混沌に対して秩序、不和に対して調和、失敗に対して成功、真面目に対して面白い、などです。Winncottは、続いて、躁の防衛的な側面について議論し、抑うつポジションに対して働く防衛全体に対して、ある新しい言葉を見出しています。これが「上昇的」という言葉であり、彼はそれを「躁的」という言葉よりも好んでいるように見えます。彼が言うには、抑うつの一つの側面、すなわち「気持ちの重苦しさ」、「絶望の深さ」、「沈んだ気持ち」などの言葉で示される側面に対する防衛を示すうえで、その言葉は有用なのです。彼はこう続けています。「重々しい(grave)、重さ(gravity)、落ち込むこと(gravitation)という言葉と、軽い(light)、軽さ(levity)、浮き上がること(levitation)という言葉を考えてみさえすればよい。それらの言葉は、各々二重の意味を持っている。それは重さに対する物理的な意味と同時に、心理学的な意味があるのである。」(p.135)。心理学的には、それは価値切り下げや冗談、そしてその逆の真面目さであり、したがって、前者は抑うつに対する防衛であると見なすことができると彼は続けています。さらに、彼は聖金曜日の絶望に続く復活祭と昇天ですら、躁的な位相の明白な証拠であるといいます。彼はこれを、抑うつからの回復の証拠と呼んでいますが(Winncott 1935)、しかしながら、もちろん、防衛という考え方と回復という考え方との間には、大きな差異があるのであり、このことは喪の仕事と償いに関するKleinの議論に十分述べられています。
 抑うつを否認している躁的な状態と、抑うつからの回復の兆しである状態との区別は、決定的に重要なことであり、もし治療者がその二つを混同するなら、治療者が成し遂げつつあるのは、まさに抑うつ状態にある患者の希望を殺してしまうということかもしれません。日常用語のなかには、「胸が躍るような(heart lifting)」、「意気揚々とした(spirits rising)」。「希望が湧きあがるような(hopes soaring)」といった言葉があり、これらはWinncottが上昇的な感情と呼んでいることに含まれる、防衛的でない、生を支えるような側面に注意を促すものです。文学や絵画のなかに描かれる生命の泉、キリストの復活そのもの、そしてまさにすべての再生神話や春の再生の儀式は、抑うつからの回復という考えや、新しい信仰、新しい生、新しい希望を表すものかもしれません。