うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

【その点、アーティストはすごい。分析を受けずしてそのことに気づいている人たちである。彼らは恐ろしいことに、創作においてなされる「内的他者との対話」によって、それに実感を伴って気づいているようなのだ。だか、考えてみるとそれこそ芸術家であることの条件なのかもしれない。】


いつも、教科書のような本ばかり読ませて頂いているので、時々、読みやすい本も息抜きに読んでいます。
今はこの本がお気に入りです。
 精神分析を受けていない人間が、精神分析をしているのはおかしいと著者は言っています。
日本には、正式に精神分析家と認められている方が、30名くらいしかいないと、何かで読んだ覚えがありますので、週5回の精神分析が受けられる人は、お金と時間に余裕がある方しか無理ですね......。
 自分は、精神分析の概念ら理論を、支援に結び付けたくて、(結びつくと思っていますし、効果も出ています。)精神分析関連の本を読ませて頂いていて、精神分析は文系で認知行動療法などは、自分的には理系な感じがして、どうしても自分が選ぶとなると文系になってしまうので、精神分析を選びました。
 一生に一度は是非、精神分析を受けてみたいですね!

 フロイトは、自分が作った精神分析を受けていないのに何故?精神分析家たりえるなのでしょうか?その辺の答えらしきものがこの本にありましたが、自分の現在の頭では、理解できませんでした。そのうち理解できるでしょうか?

 この本は、自分のような初学者にも分かりやすく、日本人が書いた本なので、なじみやすいです。
今日は、教科書的な本はちょっと休んで、こちらをアップさせていただきました。

 下記は、自分への慰みにしておきます(笑)
フロイトも芸術家に嫉妬していましたね!

『人の心というものが他者から成り立っていてのそれは他者との関係のことなのだということを発見したのはメラニー・クラインである。でも、この概念、実感を伴って理解するのはとても難しい。〜その点、アーティストはすごい。分析を受けずしてそのことに気づいている人たちである。彼らは恐ろしいことに、創作においてなされる「内的他者との対話」によって、それに実感を伴って気づいているようなのだ。だか、考えてみるとそれこそ芸術家であることの条件なのかもしれない。』 


 今日は、休みでしたが、朝から現場に入ったり、ケース会議の資料など作成したり、体を追い込んだりしていたら、あっという間にこんな時間.....。
ギターを弾いてから寝ます(笑)






精神分析たとえ話』タヴィストック・メモワール
飛谷渉 著

パート1 比喩と揶揄――訓練分析が必須なわけ

第2話もっと光を――園芸としての精神分析

 〜さて、どんなに不愉快でもなぜかあなたは週五回分析家のところに行く。なんでこんなことのために通うのかと腹が立つのだが抗えない引力がある。なぜなら分析家はあなたの無意識にふれているからであり、あなたの転移過程を掌握しつつあるからだ。この転移過程は動物にも植物にもたとえることにできるが、ここからは植物で行きたいと思う。
 そもそも転移というプロセス自体いかにも植物的である。水や肥料をやらないと枯れてしまう。週五回という設定が至適環境である。しかしながら、なんとかこの植物が枯れずにすむギリギリの環境条件について、この百年間模索され続けてきた。行き着いた限界が週一回である。しかしながら週一回という土壌は「荒れ放題のツンドラ培地」であり、「砂漠に緑を」というスローガンが必要な貧しい土である。それでも分析プロセスは茎を伸ばし、葉を広げることもある。
 植物のたとえは、特に分析プロセスの初期段階はうまく言い表すことができるのではないかと思う。すなわち、分析を受け始める前後から、「無意識的部分の種分が水を得始める。種子が一定量以上の水を得て、適温で一定期間以上経つとどなるだろうか。当たり前だが、芽が出る。芽が出たが最後、引っ込まない。種子には戻らない。成長し続けるか枯れるしかない。成熟して花を咲かせないと種はできないし、それはもう次の世代なのだ、この種子に対する水と土の役割をするものが。精神分析においてはセッティングといわれるものである。
 セッティングというのは、まず分析が行われる部屋と時間、そして一週間における頻度、長期休みの設定、料金である。そして最も重要なのが分析家という人物だ。分析家という人の心の状態(states of mind)とでもいおうか。分析家の心自体が、精神分析プロセスのための重要性土壌であり、栄養としての水なのである。そして植物の成長に欠かせない光を照らすのも分析家の心である。
 分析家の理解を被分析者に伝えることを解釈というが、この解釈が日光であるというメタファーを用いる分析家がいる。植物の光屈性という現象と精神分析プロセスにおける解釈とを重ねているのである。光屈性というのは植物や細胞の成長方向が光の入射方向に対応して変わる現象に指している。一度発芽すると場所を容易には動けない植物にあって、光屈性は最大限に光合成を行うための適応反応である考えられている。光屈性には、光を最大限に得る方向へと茎が屈曲するという正の屈性、光の衝撃が強すぎるときに反対方向へと屈曲、負の屈性とがあるらしい。そこにはカルシウム・イオン・チャンネルが制御機構として働いているという。精神分析における解釈の入射角と心の成長プロセスのベクトルとの関係を考えるというのは少々できすぎているが、まことに面白いメタファーだと思う。 精神分析プロセスを植物にたとえたのには他にも意図がある。それは、転移プロセスが発芽するということを自身が体験していない治療者、すなわち分析を受けたことのない治療者が、患者の転移プロセスに出会うときの有り様を描写することである。
 転移過程が種子植物であるとする。そうすると概ね二つの悲喜劇が分析的心理療法のセットアップ初期に起こりえることに注意を促したい。まずその一つはセッティング転移過程の種子に全く水をやることなく、植物を育てている気になるということだ。発芽していない種子を前にして、「葉が開いた」だの「花が咲いた」だのと幻覚でも見るかのように治療者が患者そっちのけで別世界に行ってしまう。喜劇である。これでは何度遇っていても結局何も起こらないので無害かもしれないが、お金を取って行う作業なのであれば詐欺である。しかしながら、「患者と会っていながら転移過程に水をやらず芽を出さないようにする」、このことが実は治療者の重要な技能にもなりうるということはセッティングもしかしたら特筆。値する考えかもしれない。なぜなら、この種子のまま保持、という能力がないと、分析的サイコセラピーを始めるかどうかを話し合うということは不可能になるからだ。出逢ったあと気づいたら転移過程は芽を出していて、そこで大慌てでプランターを準備、それから水と日光でも、などというのはあまり格好の良いものではない。
 この喜劇は悲劇になりうる。芽が出ていることは遅ればせながらでも気づけばまだしも、いつまで経っても気づかないことがある。知らずに水をやって発芽させてしまう鈍感な治療者、気づいていても育て方を知らない無能な治療者になる可能性があるのだ。せっかく出た芽をそれと知らずに踏みつぶしてしまったり、発芽したままほったらかしにして干からびさせてしまったり、水をやりすぎて腐らせてしまったり、光を全く当てなかったり。タイミング悪く光にさらしっぱなしにしてしまったり、もうこうなるとどうにも悲劇的である。
 もちろん分析過程を自ら経験した治療者が、このような転移の芽をうまかなか土になじませることができないこともありうるが、うまくいかなかったことを確認できていれば、少なくとも次に出てくる芽を待つことができる。出てきた芽を枯らせない術を試行錯誤し、保護策を考え出せるかもしれない。確かに自分の分析プロセスの芽を自ら摘み取り続ける一群の患者がいる。これが先ほど言及を避けたナルシストたちである。しかしながらナルシストも経験を積んだ分析家が統轄は分析プロセスから恩恵。受けることができる。
 分析を受けたことだない人、つまり自分の転移プロセスを経験したことのない人は、患者の転移プロセスが発芽していることに気づけないかもしれないし、枯れてしまった。にも気づけないかもしれない。さらにナルシストたちの行う芽の摘み取りに気づけないかもしれないのでこうなると治療者か患者か、そのどちらがプロセスの芽を摘み取っているのかが分からなくなってしまう。これを反復強迫という。〜





第4話マイ・ビジネス――ベティ・ジョセフ先生に会う

人の心というものが他者から成り立っていてのそれは他者との関係のことなのだということを発見したのはメラニー・クラインである。でも、この概念、実感を伴って理解するのはとても難しい。そのことを実感したのは、私の場合に他でもないこのロンドンでの、フェルドマン先生との分析の中でだった。その点、アーティストはすごい。分析を受けずしてそのことに気づいている人たちである。彼らは恐ろしいことに、創作においてなされる「内的他者との対話」によって、それに実感を伴って気づいているようなのだ。だか、考えてみるとそれこそ芸術家であることの条件なのかもしれない。たとえば、椎名林檎東京事変時代の2012年に「心」という曲を書いている。「心と云う毎日聞いているものの所在だって、私は全く知らない儘大人になってしまったんだ」、と彼女は唄う。心は他者だと知っているのだ。聞くところによると、この曲は彼女が大事な人たちに彼女の誕生日を祝ってもらうおかえしに書いた曲だという。もしそうだとすれば、食道閉鎖症という彼女が誕生とともに出くわした運命的な苦難を思うと、芸術家になるということの意味が開けてくるようでとても興味深い。〜