うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

家族会と、【フロイトは「彼が書くことを書き、彼が記述することを記述しているが、また行っていることも記述していて、つまり彼が行っているのは彼が記述していること、すなわちエルンストがしていることで、糸巻による“fort/da”なのである」(p.98,113)。】


 今日は、家族会がありました。
早めに出て、マックでコーヒーを飲みながら『フロイトの書き方』を読んでいました。


 11時にうたたね集合で、何か説明があり(おっちゃんは家族会には一切関与していないのでwわかりません)12時前に皆さん一緒にグリル華さんでお昼を頂きました!

 うたたねは24時間、365日稼働させて頂いているので、ご家族と職員が触れ合う場が中々持てず、こういう機会を持たないと、お互い顔を合わせることもできません。
 担当職員が、それぞれのテーブルについて沢山話をされていたように見えました。
おっちゃんは、お茶汲みに精をだしていました(笑)皆さん車で来られているので、お酒を出せないのでお茶で回らせて頂きました。


 中ぬけをさせて頂き、ちょっと休憩したら夜勤に入ります。親分は夜勤明けでまだ帰宅出来ていません(笑)

 ロバート・ホルト(R.Holt)の箇所は、『フロイトの読み方』ですね(笑)。皆さんこういう風に読めば、強い批判などなくなるのでは?と思いました。
 フロイトフロイトが生きた時代、フロイトの患者さんなど、フロイトの環境下で立てた理論なので、ニュートンが言うように、先人の肩に自分たちは乗ることができるので、フロイトの肩を借りて、その上に乗り自分の環境下での理論を作って行けばよいのではないでしょうか?
 他人の批判ばかりしている人間は、フロイトのように0から物を作り上げて行くことが出来ない方が多いように感じるのは自分だけでしょうか?


1,フロイトが書いたものの広がり――概観

〜英語でフロイトの文体に関し論評する者で、最も傑出しているのが、ロバート・ホルト(R.Holt)であるが、彼もまた(おそらく偶然ではないだろうが)メタ心理学と自我心理学の死を歌いあげている。ホルトのフロイトは、片足を芸術に据え続けた数少ない科学者たちのひとりであり、その生産的で創造的な思考において、二次過程の思考の束縛は、自由と支配の弁証法のなかで緩められている。ホルトのエッセイ『フロイトを読むことについて』は、基本戒律を掲げて結論としている。それは、ちょうど小学校で使用されるアルファベット表のように、精神分析インスティテュートの教室に掛けて永久に展示されるべきである。以下はその幾つかの抜粋である。


1.フロイトが意図したことを十全に読み取るには、彼のテクストを十分に読み込むのに勝る方法はない。どれほど特別な論点であろうと、それについてひとつのパラグラフのなかで自分の考えを述べ切っていることなどほとんどない。

2.フロイトの過度な定式化を字義通り受け取ってはならない。それは、あなたの注意を一点にひくためのい彼一流のやり口だと心得よ。彼が「決して」「必ず」「決定的に」など、その他それに類することを言うときは、そのまま読み続けて、その表現を限定したり、あるいは和らげている文章を探せ。


3.彼の一貫性のなさには気をつけお……それは、まだ統合されねばならない弁証法的な定式化の不完全例として受け取ること。フロイトの認識のスタイルが、絶えず彼を統合の方向から引き返させるのである。

6.フロイトが、何かを疑問の余地がないものとして確立したという照明の主張を行うときには、前向きな気持ちで疑うこと。

8.彼はしばしば正しいことを言ったけれど、その根拠は、常に彼が挙げている理由によるものとは限らなかった。それらは、彼の事例を証明するのに、本当のところは十分なことなどほとんどないし、またいつも彼が望んだ程度に証明できているとは限らない。



2,実例としての二つのテクスト

 〜ジャック・デリダは、その傑出したエッセイ『フロイトの遺産』において、主にフロイトの理論モデルをフロイト自身のテクストに適用することを試みている。『快感原則の彼岸』第2章を集中的に取り扱いながら、デリダは、なみなみならぬ器用さと繊細さで、それが一片の書かれたものとしていかに反復と迂回の産物であるかを示している。デリダの説明によれば、同章においてフロイトは4度にわたり反復という現象を説明しようとしているが、そのたびに思考の流れを中断し、自分の議論がいかなる最終的な結論をももたらさないと言明している。そのうえ「細部に目をやれば、一家の孫息子が“fort/da”〔独語のナクナッタ/アッタのゲーム:訳者〕をして遊んでいる様子の記述と、それと同様に、注意深く反復して祖父が『彼岸』を書くという思索のゲームとは、重なるところがある」(p.96)。同じ調子で、デリダは次のように観察を続ける。フロイトは「彼が書くことを書き、彼が記述することを記述しているが、また行っていることも記述していて、つまり彼が行っているのは彼が記述していること、すなわちエルンストがしていることで、糸巻による“fort/da”なのである」(p.98,113)。
 三つの運動という観点からフロイトのテクストを考察することによって、デリダの洞察を補足することができるかもしれない。その三つとは、後退、前進、そしてその混合である。諸本能一般は保守的で、物事をより以前の状態に復元しようと努力するのである(私は後でこの意見に戻ることだろう)。特に死の本能は、できるだけ速やかにその最終目標に達すべく疾走する――終わりとはすなわち始まる前の時間であり、反復強迫においては外傷的な過去の表象が死の本能の摂理の内で機能するのである。〜