うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

エコキャップ運動と、【ライトノベルと自閉症】(『精神分析と自閉症』フロイトからヴィトゲンシュタインへ・竹中 均著より)


 今日は休みでしたが、5月の総会の会場の予約に行ったりしていました。
エコキャップ運動というのをしているみたいで、キャップで作った作品が沢山ありました。
 色んな色のキャップがあるんですね! 

ギターと本は、粘り強く弾いたり、読んだりしていますが、今日は時々、つまみ食いをして(笑)読ませて頂いている、『精神分析自閉症フロイトからヴィトゲンシュタインへで、興味深い個所があったので(他は難しい......)アップさせて頂きました。
 自分も中学生の時に、あのころはライトノベルと言ったのかは覚えていませんが、そういう本に熱を上げていた時がありましたが、主人公にあまりにも簡単に同一化してしまうので、怖くなって読むのを止めてしまった覚えがあります。
 今から思うと、それも使いようだったのかもしれませんし、これくらいなら自分でも書けるののでは?と偉そうに思った時も有った思います。実際、書きかけていました(笑)ただ、音楽に目覚めて、曲を作り始めていて、直ぐにフランス詩(印象派)に傾倒して、中也に段々惹かれはじめていき、くだらない詩を山ほど書いていました。(笑)
 象徴主義という言葉もその時に覚えました。
図書館で借りた、ラカンの『精神分析の四基本概念』もときどき覗いていますが、分析協会から出た後のセミナールなので、最初の方は読んでいて少し辛いです.......。それでも支持者がいるので、彼は生きていれたのですね。
大阪の母親には中々言えませんが、弟と先日話していたら、負の能力というのがあって、母親(自分には継母ですが、弟には実母です)には、その能力があるに違いない、と話している自分がいました。
 何故?そんな状況でもどんとしていられるのか?大阪にいた時、いつも感じていましたが、弟も感じているようで、不思議な人やなというところで落ち着きました(笑)
 話が逸れましたが(笑)下記は、考えさせられる箇所です。


精神分析自閉症フロイトからヴィトゲンシュタインへ・竹中 均著

第五章 スペクトラム化したセカイ――ライトノベル自閉症
6.「やさしく読める」本のために
 このように見てくると、定型発達の若者がライトノベルを読むことによって、自閉症的な人間像に触れる機会になりうるのかもしれない。発行部数の多さから考えて、少なくない数の若者たちが、発達障害についての啓蒙活動に触れるよりも前に、ラノベを通じて、自閉症的な世界についての(正しいかどうかは別として)イメージを獲得しているように思われる。これが良いことなのかどうか、検討してみるべき問題である。
 あくまで一例なのだが、うえお久光紫色のクオリア』の中の一節を取り上げよう。本作は、人間がロボットに見えるという特異な認知力を持つ少女・毬井ゆかりをめぐって展開する。ある研究組織が、自分たちの企みのために毬井に協力を強要するが、彼女はかたくなに拒否する。そこで組織は強硬手段に出る。「家族を殺すと脅かされて、毬井は自閉症のようになった」(うえお、2009.p.273)。
 もちろんここで作者は、「脅かされて、毬井は自閉症になった」ではなく、「自閉症のようになった」と記している。したがって、自閉症が対人関係的な要因で生じると作者が主張しているわけではない。しかし、著者ではなく若い読者たちが、この一文をどのように理解するかについては、気になるところである。本作が、「人間がロボットに見える」という自閉症論の点からも興味深い設定と、無限の反復についての思考実験と、人生における選択の問題や青春期の繊細さと残酷さを織り込んだ巧みな物語展開を示している秀作であることから、その文章の影響力は少なくないと思われるので、なおさらである。
 さらに言えば、錯視図形の活用をめぐるフリスの提案が示唆しているように、自閉症のある人の方がラノベを読むことによって、定型発達者と自分たちの世界の違いを理解するための手助けとする可能性はないであろうか。ラノベは、主な読者層を、小説を読みなれていない中高生に設定しているため、やさしく読めるように工夫されている。それゆえ、本格的なSF・ミステリー・ファンタジーに比べて近づきやすい。確かに、語彙や文法の面でやさしく読める点でライトノベルは、児童文学やヤングアダルト文学と似ているかもしれない。しかし、それら従来の作品では、今まで述べてきたような人物造形や世界観はあまり用いられていない。それでは、「スタートの段階で何か違うものをもっているという意識がつねに関係性のなかで出たり入ったりしている『寄る辺なさ』や『孤立感』」を感じている自閉症のある人にとって、必ずしもやさしく読めるとはいえないかもしれない。むしろらのべの方が、この意味でやさしく読める可能性があるように思われる 
 近年、知的障害や自閉症のある人にとって「やさしく読める」本を作る試みに関心が向けられつつある(トロンバッケ、2009)。世界には、発達障害を含めさまざまな理由から、現行の書物を楽しめない人々が多数いる。現行の書物の多くが、中学校卒業以上の読解力を必要としているのが現状である。中学校卒業程度の読解力を持たない人々に、絵本や児童文学だけでなく、「やさしく読める」多様な本を提供することは、社会的に重要な意義があるはずである。その際、トロンバッケたちによるラノベへの言及はないものの、日本のマンガの可能性が言及されていることは示唆的である。ラノベをこのような気運と連動させることはできないであろうか。ちなみにグランディンは、『自閉症感覚――かくれた能力を引きだす方法』の中で、自閉症のある子どもの親たちに対するアドバイスとして、次のように記している。「『子どもがしたがることといったら、テレビゲームか、日本のアニメのマンガを描くことだけです。そんなときに勉強に関心をもたせるには、どう手助けしたらいいのでしょう』と私はいつも尋ねられますが、そんなときにはこう答えています。『テレビゲームへの執着を学習のきっかけにするんですよ!』」(グランディン、2010,P.104)。
 具体的に言えば、「いちばん効果的な方法は、ゲームやマンガの中で学習に活用できそうな要素を見つけることです。……子どもが同じマンガのキャラクターや物語をうまく利用して、ほかの活動に関心が向く様うながしながら、テレビゲームで遊ぶ時間を徐々に減らすのです」(PP.104-106)。ここでグランディンが主張していることと本稿の論点とは必ずしも同じでないが、マンガ的なものやキャラクター的なものを拒否するよりも活かす方向で考える点では共通していると思われる。〜

〜ところで、ライトノベルに限らず、「やさしく読める」本を作るためには、文章にさまざまな工夫が必要であろう。その一つが、比喩的表現を控えめにすることである。たしかに比喩は、言葉メディアの特性を生かした有効な表現技法ではあり、多くの人は日常生活でも楽々と使いこなしている。しかし実際それは、なかなか複雑な仕組みで出来上がっているようである。例えば、比喩を、算数や数学によって表現しようとしてみると、その複雑さに気がつく。
 考えてみると比喩は、言語的表現の場合と比べ、視覚的表現においてはなかなかうまく作ることができない。さらに比喩のうちでも、換喩より隠喩の方が、視覚的につくりにくいように思われる。表現上で、マンガ・アニメのような視覚メディアとの関わりが深いライトノベルでは、この点、どうであろうか。換喩は、キャラクターの視覚的属性(制服、髪型、身につけるアイテムなど)を用いることで比較的に導入しやすいように思える。個々のパーツによって全体が表現されるわけである。他方、隠喩は、部分と全体の関係が換喩とは異なっているため、どのような複雑さが秘められているのであろうか。