うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

ねこさんと牡丹の花と、【換喩と隠喩】(『精神分析と自閉症』より)


 去年買ってもらった牡丹の花が咲きました!
ミモザカイガラムシが異常について枯れてしまいましたが、牡丹だけはなんとか咲いてくれました。
春先に、芽かきをしたのですが、3つ元気が良い芽があったので、ほかを欠いて3つ残しました。
 これが一番大きな花かも知れませんね。


 今日は一日事務所に籠って一気に事務を片付けましたが、まだあります(笑)
明日も事務の時間を頂き、事務所に入る方がいないので、一気に片付けます。
 早朝にひーひー王子との散歩で頂いて来たもので遊んでみました(笑)

 早めに出勤して、1時間くらいマックで読書していました。下記はその時に読んでいた箇所です。
ラカンは、哲学者と一緒に作業していたので、本当に苦手ですが、換喩とか隠喩の精神分析的な意味理解が本当にできたなら、楽に読めるのでしょうね........。ちょっと頑張ってみますが、ラカンには深入りしている余裕はありません(笑)


 自閉症の方だけではなく、職員にも下記の様な方はいますね......。

『カナーの論文によれば「もしも子どもが最初に接したときと正確に同じ要素により、ある状況や行為、文などが構成されなければ、全体状況はもはや同じではなく、従ってそれと認められない。もしも少しでもその構成要素が変わったり、欠けたりすれば、全体状況はもはや同じではなく、従ってそれと認められない」。』



 ここで逃げると、本が進まなくなるので(笑)頑張って理解しようと努力だけはしてみます(笑)

『しかし真に大切なのは、それらの換喩的構造が隠喩的構造によって支えられている点である。主体そのものが隠喩的構造によって支えられていると言っても良い。したがって、主体が隠喩的構造に問題を抱えている場合、たとえ換喩的構造に何ら問題がなくても、心の悩みが生じる。だが、そのことは、主体の意識によってはうまく把握できない。なぜなら、意識的な言葉の世界はおもに換喩的構造で出来上がっているためである。分析家が直面するのは、この把握できなさであり、そのために言葉それ自体の隠喩的構造に目を向けねばならない。言い換えればそれは、無意識へと目を向けることでもある。』

次の3.隠喩の視点と自閉症療育は、具体的な内容になっていました。


第6章 精神分析・隠喩・自閉症 ラカン的視点から) 
1.弱い全体的統合
自閉症のある人が「優れた機械的記憶」を持つことは、裏返して言えば、その人が「意味のある」世界から遠ざけられていることを示唆しているのである。〜

〜フリスは、「弱い全体的統合」について論じた章の末尾で、次のように論じている。「カナーの一九四三年の論文を再読したとき、私は自閉症の子どもの繰り返し行動に関する彼の解釈に、弱い全体的統合を予見していたのを見出して、大いに驚きました」(フリス、2009,p.300)。カナーの論文によれば「もしも子どもが最初に接したときと正確に同じ要素により、ある状況や行為、文などが構成されなければ、全体状況はもはや同じではなく、従ってそれと認められない。もしも少しでもその構成要素が変わったり、欠けたりすれば、全体状況はもはや同じではなく、従ってそれと認められない」。
 定型発達の子どもにとっては、諸部分の小さな変化ぐらいでは、全体に大した影響を与えない。「まあ、いいか」なのである。ところが、自閉症のある子どもにとっては、部分のほんの少しの変化はただちに全体の変化として受け取られてしまう。極端に言えば、部分はすなわち全体なのであろう。したがって、全体の安定感・安心感を得るためには、諸部分の完璧なまでの同一性、すなわち繰り返し行動が必要になる。それはまるで、部分と全体が同じ水準にあるかのようである。カナーの表現によれば、そこに見られるのは、「要素的な部分部分に全注意を向けることなく全体を感じとる能力」は、もともと存在するものではなく、二次的に「緩和」によって作り出されたものなのである。したがって、上記の「全体を感じとる能力の欠如」は、有るか無いかの二項対立における端的な「欠如」とは言い切れない。言葉の問題だけかもしれないが、むしろ、「全体を感じとる能力」の二次的な構築が不調であると表現する方が適切ではないだろうか。
 つまるところ、常識的な二項対立や部分/全体関係の捉え方では、自閉所のある人の世界をうまく捉えきれないように思われる。その点で、フロイト「心理学草案」に見出される二項対立と部分/全体をめぐる諸論点は、自閉症論にとっても重要なテーマであると思う。
 そのような「草案」の論理面での重要性をいちはやく見出した1人が、ジャック・ラカンであった。〜




2.換喩と隠喩
〜人々の間で交わされる言葉の大部分は、実際的には換喩的構造から成り立っている。しかし真に大切なのは、それらの換喩的構造が隠喩的構造によって支えられている点である。主体そのものが隠喩的構造によって支えられていると言っても良い。したがって、主体が隠喩的構造に問題を抱えている場合、たとえ換喩的構造に何ら問題がなくても、心の悩みが生じる。だが、そのことは、主体の意識によってはうまく把握できない。なぜなら、意識的な言葉の世界はおもに換喩的構造で出来上がっているためである。分析家が直面するのは、この把握できなさであり、そのために言葉それ自体の隠喩的構造に目を向けねばならない。言い換えればそれは、無意識へと目を向けることでもある。
 それでは、換喩と隠喩のちがいとは何であろうか。単純化して言えば、それは水平方向と垂直方向の違いである。やはり言葉の世界が典型なので、その事例で考えてみる。
 そもそも言葉は何を指し示しているのか。一見すると言葉は現実を指し示しているように思える。
しかしじつはそうではない。極端な例で言えば、東とは西の反対である。そして西とは東の反対である。上昇と下降とが、矢印の方向が逆であるのと同じように。もちろん、そうではなくて、東とは「太陽の昇る方向」であるという説明も可能ではあるが、やはりそれでは、何か大事なポイントをすり替えてしなっているように思われる。このように、一つの言葉は、それと同じ水準にある別の言葉(比喩的に言えば、水平方向にある別の言葉)を指し示している。水平方向に、言い換えれば換喩的に、無数に言葉が指し示され続けることによって、言葉の世界は出来上がっている。言葉は現実から自律した閉じた世界であり、いくら言葉を駆使しても、現実そのものへは近づけない。それゆえ言葉と現実はつねに出会い損なっている。とすれば、私たちが言語的存在である以上、現実とは、当面到達はできないが無限遠点においては到達可能な本質的目標ではないことになる。言葉の営みの無限遠点に、現実が鎮座しているわけではない。その意味で、現実はつねに非本質的な現実である。〜