うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

名古屋と、『タスティン入門』をほぼ読み終えました。


今日は集団指導で名古屋(昨日もw)でしたが、お金をぎりぎりしか持たせてもらえなかったので、会場の目の前にある美術館に入れず、近くのコンビニでコーヒを買って、この近くで『タスティン入門』を時間まで読んでました(笑)
 お昼をマックで贅沢してビックマックセットにしようと(笑)名古屋駅から矢場町のマックまで歩いて行き、2時間くらい本を読み粘りました(笑)帰りも伏見から歩いて名古屋駅まで!
 ひーひー王子との散歩もいれたら記録更新しました(笑)


 景色を楽しんでいたら

 八木燐太郎さんの作品がいくつか並んでいるのを発見しました。

 何度も通っているのに、何故気づかなかったのか?不思議です(笑)
ネットで調べたら有名な場所でした。歩いたからこそですね!
 車を持っていないので、普段から通勤はほぼ歩きか自転車です。
京都時代も免許がなかったので、どこに行くもの自転車でした(笑)
 街に住んでいると、あまり必要ないですからね。


 今日は『タスティン入門』をほぼ読ませて頂きましたが、勉強になる箇所が多すぎるので、何回かに分けてと思っていますが、明日からは違う本に入るので、これで終わりかも知れません(笑)

下記は、思いやりのある毅然とした態度でしょうか?

『セッションの内容や象徴の意味を解釈することよりも、子どもの行動調整を優先させていることがわかる。空間と時間の境界をはっきりと確定する作業はタスティンにとって、技法における第1の必要条件である。心理的境界がぼんやりとしていて、そして(あるいは)、人間と物体との分化が十分でないという、アイデンティティの混乱があるとき、治療者が自分自身の存在を分化させ、家具のように扱われることを許さないために、十分に整理し調整したうえで治療的な接触を確立することが、初期には不可欠である。これは、伝統的な実践に比べると子どもたちと対峙する態度になっており、はるかに堅固な態度である。』


 下記は、現場で支援させて頂いていてもそう思います。
ローゼンフェルトの本は、後2冊欲しいのがあります!

『ビオンはもちろん、ローゼンフェルトも精神病患者の非言語的コミュニケーションに注意を向ける必要性を警告する――「患者の非言語的な投影に気づく能力は、精神病の治療に必須のものである」(Rosenfeld 1987)。』



下記に関しては、後の章で詳細が述べられていました。

『人間を本質的にケアするということは、行動を鎮めること、乳児の不安を包みこむことという特徴をもつが、これは主として言語表現を通じて伝達され、乳児の聴覚によって受けとめられる。別の箇所でも示唆したことであるが、視覚的刺激と聴覚的刺激を和解させることが、包みこむ対象の概念を形作るに際して、重要なのかもしれない(Spensley 1992)。』




第5章 意識の開拓者たち
連続
 オグデンは自閉―連続ポジションを心理学的生命のもっとも原始的な形式であると概念化し、生まれたときから機能しているものであると考えた。〜
〜 自閉の現象そのものについての論述ではないがローゼンフェルトは、精神病の中心にある不安を、落ちること、バラバラになることであると強調する。さらに彼は、その原因を出生時の経験と、子宮の安全性が消失したことによるとする。そこに描かれているのは自閉症と類似の現象ではないかと思える。上にあげた根拠をもとにローゼンフェルトは、患者の非言語的な投影を感じとる能力が、精神病患者の治療の基本であるとする(Rosenfeld 1987)。ところでタスティンはさらにこれより早く、自閉的レベルの神経症的不安を論じた論文で、精神分析的探究を妨げる自閉的で不可視の感情的な囲いが存在することを示唆し、注意を促している。(Tustin 1986)。

 患者のこの隠された部分の存在に、分析家が早く気づけば気づくほど、分析の長期化を避ける可能性がより高くなり、意味のない知的対話を減少させることができる。患者はより安定し、均衡を保つようになるのである。分析家はその分、患者と共に多くの不安に耐えなければならなくなるが、最終的な結末は、より価値のあるものになると、私は思うのである。(S,Klein 1980)

〜私の意見では、内容もなく、空疎で、無の状態では、たとえ思考しても視覚が先行することになる。経験間の関連が消え、対象・生物・無生物は視覚的に「理解され、統制される」ようになる。目の発達は人間の進化史の中でも、重要な役割を演じており、生き物の世界では、百聞は一見にしかずなのである。この世で最も原始的な機能に頼らざるえないのが精神障害であり、この「トンネルからみたような視界」が、精神障害の具象的思考の基礎をなしている。それこそが自閉症児の真実であり、妄想型分裂病の真実、そして強迫的行動の特徴なのである。そして苦痛は視覚から追放される。


第7章 鍵を握る人 
〜セッションの内容や象徴の意味を解釈することよりも、子どもの行動調整を優先させていることがわかる。空間と時間の境界をはっきりと確定する作業はタスティンにとって、技法における第1の必要条件である。心理的境界がぼんやりとしていて、そして(あるいは)、人間と物体との分化が十分でないという、アイデンティティの混乱があるとき、治療者が自分自身の存在を分化させ、家具のように扱われることを許さないために、十分に整理し調整したうえで治療的な接触を確立することが、初期には不可欠である。これは、伝統的な実践に比べると子どもたちと対峙する態度になっており、はるかに堅固な態度である。
 自己の感覚は身体的な近くに根ざし、通常の抑制をすることで伸びていくものであると、タスティンは信じていた。自ら明らかにしていることだが、タスティンは子どもが自分の身体や治療者の身体に対し、誤った使い方をすることを許さなかった。タスティンはルールのあるやり方を推奨する。それは子どもが到着した時に上着を掛け、セッションが終ったらオモチャを片づけるといったことである。空間と時間、双方の境界に持続して焦点を当てる目的でタスティンは、セッションの始まりと終わりに、歓迎とお別れの挨拶という正式な作法を、はっきりと示すことを望んだ。同じ理由でタスティンは、子どもが自分のオモチャをセッションに持ち込むのを認めなかった。許容や自由放任なアプローチを認めるたぐいの児童治療とは遠く隔たるこの原則は、初めビッグによって提唱されたが、現在では子どもの精神療法家に広く受け入れられ、実践されている。
 こうした実践的な方法を使うことで、やがて治療者に対する子どもの覚醒と、他者の世界への覚醒を伸ばすことができるとタスティンは感じた。同様に、精神病的な子どもに対する心理治療の第一目標は、子どもの心にある治療者の存在に、生命を与えることである。治療は初期から、その子が生命のあるもの・。ないものの分化に失敗している事実を示す行動に、焦点を当てる。精神病的な子どもの治療では、神経症と違って、治療者はずっと能動的でなければならない。自分は生きていると知覚されるように努め、行動や言葉によって無理やりうち負かされたり、家具のように扱われてはならない。〜

〜ビオンはもちろん、ローゼンフェルトも精神病患者の非言語的コミュニケーションに注意を向ける必要性を警告する――「患者の非言語的な投影に気づく能力は、精神病の治療に必須のものである」(Rosenfeld 1987)。〜

〜人間を本質的にケアするということは、行動を鎮めること、乳児の不安を包みこむことという特徴をもつが、これは主として言語表現を通じて伝達され、乳児の聴覚によって受けとめられる。別の箇所でも示唆したことであるが、視覚的刺激と聴覚的刺激を和解させることが、包みこむ対象の概念を形作るに際して、重要なのかもしれない(Spensley 1992)。〜