うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

トマさんのライブと、前立腺の友?と、【「ぼっち」は葛藤を回避する】


 今日は夜勤明け、帰ってひと眠りしてから、トマさんのライブに出かけようと思っていましたが、ホームとショートの利用者さんにアプレシオの誘いを受け、いのうえっちと、あだっちゃんの3人で行って来ました。
 昼過ぎに帰宅し、本を読んでいたら、うとうとしていました(笑)
あっという間に一日が過ぎ、豊橋まで走りました。
 花鳥風月の最後の月をお題に、萩原朔太郎等の詩などを読み上げながら、月に関する曲を弾き語りでトマさんが唄っていました。

4枚のはがきが飾ってありました。
最後なら、はがきのデザイナーさんが頑張って、短いプロジェクションマッピングがあって、調香師さんが調香された香りがライブハウスに流れていましたが、香りもそれに対して調香されたのなら、曲が始まって少しずつ香りがしてきたらもっと良かったのになと勝手に思いました(笑)
 うたたの催事に何回かご協力頂いているので、ライブの案内を頂いたので、行かせて頂きました。


 ライブ前の腹ごしらえに入ったお店のトイレに貼ってあったものですが、目をこすって何度も読み返しましたが、『前立腺の友』でした(笑)これで目が覚めました(笑)
 スーパーあつみにあるということなので買ってみましょうか?でも、ちょっと恐い様な(笑)、まだ今の所、必要ないかも?でした(笑)


 一冊読み終わって、借りてきた本をななめ読みしています(笑)
最後にアップしたかった箇所です。
 原本と呼ばれる本と、この本のように現代の本の両方を読み続けたいと思いました。
ネット社会になって、誰でも、所・時間構わずに、主張できるようになったのはいいのですが、自宅で身内に話していることが世界に発信されるので、本当は恐ろしいことですね.......。
 自分は八幡の意見に強く同意します!他人に気を使ってまで、生きたくないですね(笑)
 以前にも取り上げさせて頂いた下記のツイッターを思い出しました。
『知人が、facebookは「羨望製造機」、Twitterは「パラノイア製造機」、そしてLineは「分離不安製造機」と言ってた。言い得て妙だ。』
 まあ、情報源は、ツイッターですが(笑)
下記の本でも、ミクシーからフェイスブックに変わっての変化等も取り上げられていましたが、定点や主体が完全に確立する前に、社会デビュー(ある意味全世界的デビュー)してしまうのが、下記の要因の一つでは?と勝手に(笑)思ってしまいます(笑)



第8章 非定型化する若者世代のこころ ――現代の対人恐怖とアグレッションのかたち畑中千紘
6,対人恐怖概念の変遷
 〜一方山田は、すでに1970年代後半からいわゆる「伝統的な青年期のノイローゼ」としての対人恐怖はほとんど見られなくなったと指摘し、「ふれ合い恐怖」という新しい対人恐怖症の形を提唱した。ふれ合い恐怖とは、表面的なつきあいには問題はないが、会食や雑談といった一段深い交流場面において神経症的不安が生じるものであり、「会食恐怖」とも言われて、80年代以降、研究の俎上に載せられるようになった。対人接触を回避する対人恐怖とは異なり、表面的な関係は問題なく持てることから「軽症対人恐怖」などと言われ、病理としてはあまり重篤ではないとされるが、関係が深まらないと葛藤が意識されないという点では問題が深まったとも言えるだろう。ふれ合い恐怖を呈する青年は内省傾向に乏しいとされ、当初は「恥の病理」とされた対人恐怖も、この頃よりその中核的心性が「おびえ」へ移行していることが指摘されるようになっていく。
 2000年代に入ると、一人で人前で食事をしているところを見られる不安にさいなまれたり、実際に学内で人に隠れて食事をとったりする大学生らが現われ、「ランチメイト症候群」と呼ばれるようになる。岡田によれば、ふれ合い恐怖が「誇大的な自己が露呈しないよう防衛」して対人状況を避けるのに対して、ランチメイト症候群では他者の視線に圧倒され逃避する「過敏型」の反応をするという・現在ではこの流れがさらに強まり、学校生活などで外れた対人的ふるまいをしてしまわないかという不安が広く共有されていると思われる。充実した対人関係を持つ「リア充」になれればよいが、グループに入れず一人になってしまう「ぼっち」、空気が読めず非社会的行動をとる「DQN」、一人でいることを恐れリア充層と一緒にいる自分をアピールすることで満足感を得ようとする「キョロ(充)」、キョロ充的な態度をとっているのに友人や恋人ができない「キョロぼっち」等々、最近では非適応的対人態度がネットを中心に細分化されてきている。しかし、最も適応的である「リア充」という概念にもどこか相手を揶揄するニュアンスが含まれているように、これらの中に安定したステータスは存在しない。それにもかかわらず、次々と概念化が進んでいくのは、対人接触が即座に自己否定につながりかねない、現代の対人関係における緊張とリスクの高さの反映と考えられるだろう。〜



7,現代の対人恐怖 ――「ぼっち」は葛藤を回避する 現代の対人不安の特徴は、自らのステータスが満足なものでなかったとしても、それがかつてのような神経症的な葛藤構造にまで煮詰まっていかないということであろう。一例として、「ぼっち」をテーマとした代表的なライトノベルやはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』を見てみたい。この作品では、ぼっちばかりが集まる部活に入った主人公・比企谷八幡が自らの学園生活をユーモラスに一人称視点から語っていく。ぼっちであった八幡は、作品の冒頭からぼっちだらけの部活に所属させられ、多くの人間と関わることになる。八幡は、ぼっちといっても自分で「基本高スペック」だと述べているように、決して人間関係を築く能力が低いようには見えず、成績も悪くない。高感度の「ぼっちレーダー」を持っていて、周囲の状況も極めて適切に読んでいる。にもかかわらず、八幡はかたくななまでに周囲を「友達」とは認めずに、ことあるごとに自分はぼっちだと主張する。「おいおい、すげー大変そうじゃん。封建社会かよ。あんな風に気を使わなきゃリア充になれないなら俺はずっとびっちでいいよ?」と、聞こえてくる周囲の会話に対して彼が内心でつぶやいたこのセリフは印象的である。八幡は、学校で「リア充」として生きるためには「封建社会並みに相手との関係に気を配り、それに合わせていきなければならないことを知っている。常に他の生徒と自分を比べては自虐的に語ることから、ぼっちというステータスを全面的に肯定しているとは思えないものの、それでも八幡は封建的関係に入らないために、自ら「ぼっち」というあり方を選び取っているようにも見えるのだ。〜


9,非定型化する対人恐怖とアグレッション
 〜ここで示した3事例すべてにおいて、アグレッションの噴出が変化の契機となっていたことは注目に値するだろう。彼らは皆、学校の友人関係は良好に保ちながら、夢やネットを通して絶交する、殺すといった極端に激しいアグレッションを突発的に表出する。昨今、友人の前では常に「いい子」であるのに、ネット上では暴言を吐いていたり、奔放なキャラクターを持っていたりすることがあるが、これも日常の中で自分を表出することが
あまりにも抑えられているからではないだろうか。〜

〜自己と社会の枠組みが緩み、症状や不安もはっきりとした形に結晶化しない現代において、自分を中心に据えて意志や感情を表現することはどれほど難しいことになっているのだろう。レスは遅すぎても早すぎてもダメ、相手のヒマな時間に送るべし、ただし内容がないものはダメ、早く切り上げすぎてもよくないが引き延ばしてしまってもウザい……といったように、日常のやりとりにこれだけ相手のアグレッションを喚起する契機が含まれているとすれば、彼らがごく普通の人間関係を維持するために負っているリスクの高さは計り知れない。ノリや言葉遣い、タイミングに至るまでありとあらゆる側面で同質性が求められる関係の中では、青年期にあっても自分の世界に浸り、思い悩む時間はほとんど与えられていないのだろう。些細なことでネットが炎上したり、芸能人や公人の小さな失敗に世間の非難が押し寄せるような昨今の状況も、アグレッションの過度な抑制の裏返しなのであろうか。ここで提示した3つの事例が示してくれたように、現代の対人恐怖は、この複雑な状況の中で他者とつながることへの強い恐れから生じているように思われる。だからこそ相手との深い接触は様々な方略を駆使して巧みに避けられていくが、象徴的な次元での他者の殺害が解決をもたらしてくれたように、身をかけた相手へのコミットメントこそが、つながりを失った現代に真の関係をもたらし、周囲の人に対する恐れからわれわれを開放してくれるのかもしれない。