うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

うたたね外壁工事進捗状況と、菜の花と、《考察》(自閉症スペクトラムの臨床より)


 今日の早朝のうたたねの外観です。外壁工事が本格的に始まるので、足場が完成していました。
これから一気に貼り付けて行くのでしょうか?
 月日があっという間に過ぎて行くので、あっという間に出来上がるんだろうか?と思いながら、夜勤を明けました。



 こちらは、昨日親分が、菜の花祭りでTシャツ展をしたいとの思いを果たそうと、やっと本部に辿り着いたと夜勤時に写メを送って来ました。中々雰囲気のある会場ですね!
 今年はもう花が終わりそうなので(この地域は)無理そうですが、来年は出来そうですね!


 眠い目をこすりながら、少しだけ本を読ませていただきました。

 支援の強度?的な事を意識させようとしているように思いました。
その方、その方によって支援の強さを(過程ごとにも)考えながら行わないといけませんね。

『私が彼に対して厳しく直面化しすぎると、彼に必要であった、強い父親への同一化が許容されなかったのではないかと思う。よりうまくいったように思われるのは、毅然としてはいるが少し退屈そうな声の調子やユーモアをこめたからかいの調子であった。彼はより深い唸り声を上げ、足をもっと強く踏み鳴らし、背筋を伸ばしてしっかりと立つ(standing tall [自信を持って立ち向かう])ようになり、父親にある程度同一化し始めているようであった。父親への同一化は、エディプス的競合に耐える手助けになることは確かであり、万能感的な方法に取って代わってより現実的な行為の主体者の感覚や有能感が育つのに役立つ。』



  こちらは先日の部分ですが、『毅然として、それでいて理解のある「コンテインメント」を必要としていて、それは思いやりと常識(common sense)が組み合わさったものである。』は、現場ではとても大事なことですね。


『こうした子どもはショックのさなかにおり、傷ついていて、弱く、助けがないと感じているという錯覚を自分に与えてくれるようなやり方を発達させてきている。こうした子どもたちは、とても受け身に見えるのだが、小さな暴君である。いわば「大きな顔をする(too big for their boots)」のである。このような子どもたちは、毅然として、それでいて理解のある「コンテインメント」を必要としていて、それは思いやりと常識(common sense)が組み合わさったものである。彼らはこうした大人の対応を歓迎する。というのも、周りの心配する大人たちと同じように、彼ら自身も自分がよい状態にあると思っていないからである。』





《考察》
 ジョセフのような子どもに話しかける際の技法的問題は困難なものである。にもかかわらず、私は、自分の話したことを子どもが聞いてくれて子どもとの間で原-発話が起こるように励ますことのできるやり方を見つけ出すことができたセッションの一部だけを取り出して述べてきた。こうした子どもとの心理療法の仕事は決して容易ではなく、自閉症の持つ力には恐ろしいものがある。しかしながら、こうした子どもたちにどのように話していったらいいのか、なぜ特定のやり方が他のやり方よりも役立つのか考えるのは興味深い。ジョセフの反復的な会話には多くの異なった動機があったと思う。彼がそのような会話に完全に没頭しているように見えるときはあったが、先に述べたように、彼は確かに自分の会話への私の反応をモニターしているときもあると考え始めた。そして私がこの排除された第3者に切迫した声を与えると彼はより自閉的でなくなったのは確かである。これは、こうした瞬間に投影はコミュニケーションとしての要素があったことを示唆している。あるいは、これを原-コミュニケーションと呼ぶべきなのだろうか? 彼は私からの反応を期待していなかったかもしれないが、私が反応した時それを認識したし、喜んだ。彼の「会話」が傲慢な自己耽溺のように見えた時もあり、そうしたときは、私は彼に対してこうしたことを直面化した。彼は私からこれらのどちらをも必要としていたのではないかと思う。つまり、比較的受容的な懇願調の「母親語」だけでなく直面化するような「父親語」の両方を必要としていた。治療室の中での父親の声には2つの側面があったようである。1つは、子どもが万能感(ominipotence)に耽ることを拒み、子どもに学び成長することを要求し、子どもは大人と同じではないことを明確にする父親である。もう1つは、(力強い声や自己主張の有能感[potency ]に)同一化するように誘い、それを許容する父親である。どちらも私の声の調子が的確な時だけうまくいった。私が彼に対して厳しく直面化しすぎると、彼に必要であった、強い父親への同一化が許容されなかったのではないかと思う。よりうまくいったように思われるのは、毅然としてはいるが少し退屈そうな声の調子やユーモアをこめたからかいの調子であった。彼はより深い唸り声を上げ、足をもっと強く踏み鳴らし、背筋を伸ばしてしっかりと立つ(standing tall [自信を持って立ち向かう])ようになり、父親にある程度同一化し始めているようであった。父親への同一化は、エディプス的競合に耐える手助けになることは確かであり、万能感的な方法に取って代わってより現実的な行為の主体者の感覚や有能感が育つのに役立つ。私は、的確な強度で自閉症を持つ子どもにアプローチする必要について別稿で(Alvarez,1999)論じたことがあるが、バロウズ(Barrows,2002)がもっと特定して、自閉症を持つ子どもに対して攻撃的な遊びを導入することを論じ、引きこもった幼児に攻撃的な遊びを導入することがとても有用であることを見出だしていること(本章第5章参照)は興味深い。〜