うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

無料のコーヒーと、外壁工事と、第5章「遊び」療法―自閉症と心的外傷に取り組むこと


 今日は一日事務の日!嬉しい様な、悲しい様な....。しかし、あっと言う間に時間が過ぎました。
夕方、ショートさんも賑やかだったので、少し残ろうと思ったら、親分がいらんから帰れ!って(笑)
 皆さんに「要らんと言われたので帰ります」とあいさつして(笑)帰って来ました。夜勤と遅番がいるので、邪魔でしたでしょうか(笑)
やーやー言うので帰って欲しかっただけですね(笑)

 朝は自宅を早めに出て、マックの(大阪ではマクドですが、今でもマクドなのでしょうか?)無料のコーヒーの最終日に行って来ました(笑)やっぱり無料のコーヒーだけとはいかず(笑)ハッシュドポテト150円を買ってしまいました.....。
 機械でこれくらいのレベルのコーヒーを淹れれるなんて、本当に人間の仕事がなくなりますね....。
昨日もTVで5日間でパン屋さんになれるだとか、直ぐに(期間を忘れたのでごまかしていますw)左官屋さんになれる講座があるとやっていました。
 人工知能が幅を利かせてきたらどうなるんでしょうね?



外壁工事も進んでいますが、お天気が悪い日が多く今日も職人さんが早く帰られました。

 ご家庭の事情でうたたねを出られた方のご自宅に忘れ物を届けて来ましたが、お元気で良かったです。
何かあれば、おっちゃんが出来る範囲でいくらでも協力させて頂きますとお話しさせて頂きました。
 今日は大寒ですが、まだまだ寒い日が続きそうです。ご自愛下さる様、お願い致します。


 無料のコーヒーを頂きながら打ち込んでいた箇所のアップです。
『共同注視』は知らず知らずのうちにやっていることがありそうですね。

『情緒的な関わりや共同注視は、自閉症の言語発達を促進する上で、言葉の道具的使用よりも根本的な役割を果たしているように思われる。そして、このアプローチは臨床での介入にも応用すれば、思考や信念のどんな訓練よりも自閉症の子どものコミュニケーションのスキルをより効果的に高めるだろう。』


 『遊び』は大事な行為だと思われますが、その遊んでいる行為だけ取り上げて、遊んでいるだけだと言われることが多いですが、その中で『情緒的な関わり・共同注視』を使って、アクションが起こせるようになると、写真や絵カードを使わずに、支援者が道具になれるのになと思う事があります。

心理療法は一緒に遊んでいる2人の人間に関係している。ここから推論できるのは、遊ぶことが可能ではない時、セラピストがする仕事は患者を遊ぶことができない状態から遊ぶことができる状態へともっていくことに向けるということである。[winnicott,1971,p.38]』




第5章「遊び」療法―自閉症と心的外傷に取り組むこと
ポール・バロウズ




はじめに

〜もし心理療法を(その親ではなく)自閉症を抱える人自身のためのものとして考えるならば、不十分な言語能力しか持たない人には役立たないということを心に留めるべきであろう。自閉症の子どもに変化を促す非言語的な技法が遊び療法である。こうした実践は自閉症を持つ子どもが不安をコントロールし、より創造的に遊びことを援助する上で有用であるが、もし治療者が子どもの遊びに解釈を行うならば、単に子どもを混乱させることとなり逆効果である。[Baron -Cohen&Bolton,1993,p.70]


 この「心理療法」と「遊び療法」の間を暗に区別することは、いくぶん誤解を招くもののように思われる。子どもの心理療法士たちは非言語的な子どもたちとコミュニケートする手段として遊びを使うことに慣れ親しんでおり、実際、クライン(Klein,1955)はもともと、彼女の遊戯技法(pray technique)を大人の患者の(言語的な)自由連想の「代替物」として発展させた。子どもの心理療法士はまた、自分たちのコメントはその子どもの理解力に見合った適切な水準に調節されているかを確認することに関心を払っている。違いがあるかも知れないのは、子どもが自閉状態から姿を現し始めたのちに治療の作業が進展する道筋にある。
 もちろん、いずれの種類のセラピストにとっても一つの困難となるのは、(常同的行動ではなく象徴的。創造的な遊びと言う意味での)遊びはまさに自閉症の子どもたちが苦手なものだということである。こうした能力の欠乏こそがウィングとグールドによって述べられた古典的な3つ組みの障害、つまり、「社会的相互作用の障害、想像的・象徴的な関心に代わる常同行為、言語発達の障害」(Wing & Gould,1979,p.26)のうちの一つを形成している。この3要素は密接に関連して合っており、精神分析心理療法士は、想像力や言語を子どもが発達させるのを援助するように努める上で、子どもと情緒的に関わり合うための道筋として遊びを用いるだろうが、それにより背後にある社会的相互作用の問題にも取り組んでいる。まさにこうした局面で、精神分析心理療法士は通常の乳児の間主観性の発達過程に関する発達心理学からの見識を参照する。
 トレーヴァーセンとエイトケンは、「一次的間主観性(primary inter-subjectivity)」に関する、最近の包括的なレビューの中で、こうした情緒的な関わりの治療的重要性を強調しており、とりわけ自閉症との治療の仕事や言語発達に言及している。


 自閉症への特別支援教育の研究において、話し方や言葉の指導はもちろん、大きな重要性を与えられている。しかしながら、言語療法は一般的にそれ自体では効果的ではない……中略……コミュニケーションに非常に大きな問題を抱えているより多くの子どもたちにとって、背後にある対人面での問題に取り組むアプローチはより効果的である。情緒的な関わりや共同注視は、自閉症の言語発達を促進する上で、言葉の道具的使用よりも根本的な役割を果たしているように思われる。そして、このアプローチは臨床での介入にも応用すれば、思考や信念のどんな訓練よりも自閉症の子どものコミュニケーションのスキルをより効果的に高めるだろう(Astington&Jekins,1999,Rollins et al.,1998)。[Trevarthen & Aitken,2001,p.32]


およそ40年前にウィニコットがすでに「情緒的関わりと共同注視」の重要性を暗に強調していたことに注目するのは興味深い。私の考えでは、彼が「遊び」の重要性について述べた際に言及していたのはこれなのである。彼は遊びが可能ではない時に、心理療法士の第一の仕事は患者が遊べるようにすることであると詳細に説明した。


 心理療法は一緒に遊んでいる2人の人間に関係している。ここから推論できるのは、遊ぶことが可能ではない時、セラピストがする仕事は患者を遊ぶことができない状態から遊ぶことができる状態へともっていくことに向けるということである。[winnicott,1971,p.38]