うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

ノロウィルスに備えてと、昨日の続き


ノロウィルスが猛威を振るっているとのことで、万が一に備えて色々購入させていただきました。

 マスクも大量に購入!職員だけでなく、利用者さんにも使っていただきます。

 『クラインーラカン ダイアローグ』を読み終え、ちょっと一息....。
今度は、

 こちらに入ります。
認知行動療法精神分析が出会ったら』題名を見てついつい購入してしまいました(笑)
自分にはピッタリでは?と読ませていただく前から勝手に思っています。

 時々、こちらに寄り道しながらと思っています(笑)



下記は、昨日の続きです。まだまだアップしたい個所がありましたが......。



〜知りたいということに対するこれらの態度は、包む対象に対する早期の関係に見られると思います。そこでは投射された無意識の一部こそが、赤ん坊が「知る」ことに堪えられないものです。もし母親が知ることに堪えてこれらの投射を受け止めることができるならば、赤ん坊は自分について知りたいという願望を支える対象を内在化することができるでしょう。もし、何らかの理由で、母親がこの投射を受け止められなかったり受け止めようとしなかったりしたら、赤ん坊は知ることができるよう促すこの対象を内在化することなく、現実を憎み意味を取り去る対象を対象を内在化するでしょう。もっと倒錯的な患者だと、この真実との関係はもっと複雑なものとなります。防衛の手段として真理を歪める無意識な試みがなされることでしょう。 
 母親や分析家の観点から見れば、患者が私たちの方に取り扱いを任せたいと思っているものが、少なくとも部分的に意識されることがよくあります。ときには「私は堪えられない、もしこれに直面し始めることになれば、私にとっても患者にとっても大きな負担となるだろう」とひらめくことがあり、私たちは背を向けてしまいます。断片化し、心のうちにあるものを憎み恐れ患者と共にいると、私たちは、つながりをつくること、いやそもそも考えることさえどれほどつらいことかと実際に気づくことがあります。私たちは言葉を聞いても、それによって私たちの象徴的な機能が動き出すのを感じることはできません。バスに乗っていた先ほどの患者の例では、私は自分の心が生き生きとしてよく機能していると感じることができました。私は彼女の心の平安を破壊するというある種の不安に対処しなければなりませんでした。しかしこの不安は耐えるのがそれほど困難なものでもありませんでした。これは私たち自身の心の状態についての不安であり、私たちがどれほど分析家として良く機能しているのかという不安であると考えられなくもないです。しかし、私たちの心の状態ももちろん大きな役割を演じてはいますけれども、患者のコミュニケーションが「象徴的な意味に満ちた」という意味でいっそう豊かであるとき、しばしば患者が持ち込んだものの周囲に連想のつながりをよく容易に探索するすることができます。これらは象徴的な連結です(これらの連結は患者の投射物との関係であり、患者の無意識のありかたとの関係であると言えましょう)。友人からのあの家具にまつわる連想と同様、これらはまさに+Kの連結なのです。
 他方で、もっと断片化し、自らを解体しようとする傾向のある患者の場合、分析作業は理解できない物事を聴かされるという試練に似てきます。私たちは心のなかで連結を結びますが、それらの連結は意味をなさないように見えます。というのも、患者は自分自身でありそうな結びつきを見て取り、そこから私たちを引き離すか、あるいは手がかりを失わせようと発言するか、あるいはもっと暴力的に私たちの知覚を攻撃することで、恐ろしい知識/意識が生じないようにするからです。もし分析家が起こっていることを理解するなら、患者は大変な脅威を感じてそのわずかなヒントが現れるように見えるや否や破壊せずにはいられなくなるのです。たとえそれが分析家の心のなかのことだとしても。