うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

年末チャリティー新聞取材と、『無意識―クライン派の観点』 ロビン・アンダーソン

今日は午前中に、うたたね外壁工事と火災報知機工事の打ち合わせがありましたが、夜勤明けだったので、親分に任せて一時帰宅しました。仮眠させていただこうかと思いましたが、13時からチャリティーの取材があるので、寝ずにバンドクラブでやる予定の『夢の中へ』をアレンジしてMTRで録音し、ミックスダウンまでやりました。ダンス・ビートにしたので、結構ノリノリな感じです!
CDに落として皆さんに聴いていただきます!おっちゃんの歌は、拷問に近いかも(笑)

 中日新聞さんと、東愛知新聞さんが来てくださり(長澤さんのお力ですが)長澤さんと親分がインタビューを受けていました。

 いつもは店内で撮影でしたが、今日は新年に開催される日本がの展示があったので、外での撮影になりました。

 今回は263,160円も頂き、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。5年間毎日朝晩複数回、まわり続けて来てくれた洗濯機の音がおかしくなっていましたので、職員一同、洗濯機との声が上がっていたので、洗濯機を早速見に行ってくれたようでした。
 ノロウィルスが猛威を振るっているとの情報が入っているので、ノロ対策用の消耗品も購入させていただきました。
神戸館さんにはもう10年支援していただいていて、長澤さんももう81歳になられたので、来年はできるかどうかわからないとも言われていました。うたたは、本当にお世話になったので、もう充分ですと言わせて頂きたかったのですが、恒例の行事がなくなると寂しい気持ちになりました。ご寄付ももちろん頂ければ嬉しいのですが、他の事業者さんにされるならされるで、喜んで協力をさせていただこうとも、偉そうに思っていましたので、本当に淋しいですね......。
 新聞記者さんは、今日で今年の仕事が終わるとのこと....。羨ましいような、羨ましくないような.....。。妄想分裂態勢?になりました(笑)本の読みすぎでしょうか?

 バタバタした毎日ですが、時間の隙間は探せばあるもので、下記の個所を読めました。
自分たちの支援にとって、重要なことが書かれていると思いました。

『クライン−ラカン ダイアローグ』より
【無意識】
1,無意識―クライン派の観点 ロビン・アンダーソン
〜どのようにして患者の素材に通じるかのかという問いには後でまた触れようと思いますが、その前に無意識的なものを取り扱うその方法について考えてみたいと思います。この問いを考えるもう一つの方法は、「抑圧とは何か」と問うてみることです。フロイトは抑圧を強制力――もともとは検閲であり、後で言うところの超自我です――として考えており、これが受け入れがたい無意識の考えを押し下げたままにしておき、意識化を妨げます。これを対象関係の言語に置き換えるなら、自己に対し力を振るう内的対象が、その権力や権威によって、自己や他の対象がある種の活動、たとえば暴力や性的活動を行うことを禁じるのだと言えます。このような状況は抑うつ態勢に到達している心のなかにあると言えるかもしれません。他の詳細についても付け加えられますが、私たちはコントロールが可能な心的組織を見ているのです。しかしもちろん、もっと原始的な状態についても考えてみますと、その組織はもっと異なるものです。つまりそれは妄想分裂態勢なのです。そこにはあまりに力強くて、堪え難いゆえに受け入れがたい感情と衝動がありますが、私たちはそれらが自己から排出され、分け隔てられ、投射されていると感じています。それゆえそれらの経験は自己にあるとは全く感じられず、対象のなかにあると感じられます。人生の早期には望ましくないものは投射され、赤ん坊の心が枯渇するという状態がありますが、赤ん坊はその投射されたものが回帰するという恐怖に囚われて、それがずっと自己の外にあると感じ続けることになります。メラニー・クラインは、この状況がどのようにして良いものと悪いものとのいっそう一貫した分裂へ、つまり妄想分裂態勢へと発展し、最終的には抑うつ態勢へと移動してゆくかについて説明しています。ビオンはこの過程の理解を大変豊かにしてくれました。というのも、彼はこの堪え難い世界、つまり自己をこれほど脅かす無意識を見せてくれたからです。私たちはこの無意識を追い払いたい、つまり地獄に行って欲しいと思っているだけでなく、また「追い払いたくないと欲してもいる」のであり、「無意識」を入れ込んでおく特別の対象さえも探し求めているということを彼は認識していました。この対象はもちろん〈母〉であり、この過程はビオンが記述した「包むもの――包まれるもの」です。それゆえ、赤ん坊が堪え難い心的経験――ビオンの言う「β―エレメント」――、つまり生の堪え難い心的経験から脱却しようとするとき、これらの経験は母親のなかに存在すると感じられます。もし母親が「ほど良い」母親であるなら、彼女はこれらの投射を受け入れることができ、心地よくない状態に身を置くことができます。しかしその後、彼女はこの投射物を赤ん坊に押し返すのではなく――赤ん坊はこれを恐れています――、より穏和で恵深い仕方で応答するため、赤ん坊に返されるものは投射されたものよりも悪くはないものになります。赤ん坊は、言ってみれば彼が投射したもの(一つの過程と言うべきものですが)の恵深い形を自分自身のなかに、自分の無意識のなかに再び受け入れます。このきわめて特別な、そして本質的な対象関係は徐々に内面化されます