うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

『フロイトを読む』と、『ウィルスは生物か?』(生物と無生物のあいだより)


 『フロイトを読む』を読みながら、


 時々、この二冊も読ませていただいていますが、フロイト全集読破は諦めていますが、(笑)
この二冊を読ませていただいていると、一つのことにこんなに集中しないと、本当にそのことについて
の発言ができなくなりそうです......。
 完成や終わりなどないのですね.....。でも、逆にそう考えたほうが、中井久夫先生が診断は仮説だと思えばいい
と言うように、全て仮説なんだと思えば、ある面楽にもなりますね!
 ちょっと読んだり、聞いただけで全て知ったように語る輩は放っておきましょうね(笑)

 明日は遠出しないといけないので、『フロイトを読む』もしっかり持って夜勤に入りました。
時間があれば、読ませていただきます。
昼間にこれを打ち込んでいたので、後はアップするだけでしたが、男子は日本シリーズにくぎ付け状態で、やっと自室に行かれました(笑)逆転のまた逆転!どうなるのでしょうか?広島の応援している方ばかりです。
今日は大阪人の黒田なので、応援していましたが、勝ちが消えてしまいましたね......。
 やっと仕事が一段落つきました、今からパソコン作業を行います。
昨日、会計士さんから、期末の報告と改善点(事務仕事の)の連絡があり、前々から表計算のやり方を
もっとシンプルにしたほうが、間違いが減るのでエクセルで一番簡単な表を作成しなおした(給与集計表などはやり直しましたが)
方がいいとご指導を受けましたので、該当書類のフォーマットの作り直しをやっていきます。


生物と無生物のあいだ』も非常に良い本でしたが、予告通り?ウィルスの一部のアップで終わります。
アップさせていただいた前の箇所も自分には新鮮でしたが、長すぎるとクレームが出ていますので(笑)
これくらいにしといたる(笑)わ!大阪人なのでお赦しを!
 どこの世界でも、先を行っておられる方は大変ですね!批判・中傷の嵐を乗り越えて(ウィニコットの言う、生き残る?)やっと
世に認められるのですね。自分なんかまだまだけつが青い(笑)


ウィルスは生物か?
 ウィルスは、単細胞生物よりもずっと小さい。大腸菌ラグビーボールとすれば、ウィルスは(種類によって異なるが)ピンポン玉かパチンコ玉程度のサイズとなる。光学顕微鏡では解像度の限界以下で像として見ることはできない。ウィルスを「見る」ことができるようになったのは、光学顕微鏡よりも十倍か百倍もの倍率を実現する電子顕微鏡が開発された一九三〇年代以降のことである。
 野口英世が黄熱病に斃れたのは一九二八年である。まだ世界はウィルスの存在を知らなかった。そして、彼が生涯をかけて追った黄熱病も、狂犬病も、その病原体はウィルスによるものだった。彼が、繰り返し繰り返し顕微鏡で観察したその視野の背景は、彼の性急さを一瞬でも押しとどめ道の可能性を喚起するには、あまりにも明るく透明すぎたのだった。
 ウィルスを初めて電子顕微鏡で捉えた科学者たちは不思議な感慨に包まれたに違いない。ウィルスはこれまで彼らが知っていたどのような病原体とも異なって、非常に整った風貌をしていたからである。斉一的すぎるとさえいってもよかった。
 科学者は病原体に限らず、細胞一般をウエットで柔らかな、大まかな形はあれど、それぞれが微妙に異なる、脆弱な球体と捉えている。ところがウィルスは違っていた。それはちょうどエッシャーの描く造形のように、優れて幾何学的な美しさをもっていた。あるものは正二十面対の如き多角立方体、あるものは繭上のユニットがらせん上に積み重なった構造体、またあるものは無人火星探査機のようなメカニカルな構成。そして同じ種類のウィルスはまったく同じ形をしていた。そこには大小や個性といった偏差がないのである。なぜか。それはウィルスが、生物ではなく限りなく物質に近い存在だったからである。
 ウィルスは、栄養を摂取することがない。呼吸もしない。もちろん二酸化炭素をだすことも老廃物を排泄することのもない。つまり一切の代謝を行っていない。ウィルスを混じり物がない純粋な状態にまで精製し、特殊な条件で濃縮すると、「結晶化」することができる。これはウエットで不定形の細胞ではまったく考えられないことである。結晶は同じ構造を持つ単位が規則正しく充填されて初めて生成する。つまり、この点でもウィルスは、鉱物に似たまぎれもない物質なのである。ウィルスの幾何学性は、タンパク質が規則正しく配置された甲殻に由来している。ウィルスは機械世界からやってきたミクロなプラモデルのようだ。
 しかし、ウィルスをして単なる物質から一線を画している唯一の、そして最大の特性がある。それはウィルスが自らを増やせるということだ。ウィルスは自己複製能力を持つ。ウィルスのこの能力は、タンパク質の甲殻の内部に鎮座する単一の分子に担保されている。核酸=DNAもしくはRNAである。
 ウィルスが自己を複製する様相はまさしくエイリアンさながらである。ウィルスは単独では何もできない。ウィルスは細胞に寄生することによってのみ複製する。ウィルスはまず、惑星に不時着するように、そのメカニカルな粒子を宿主となる細胞の表面に付着させる。その接着点から細胞の内部に向かって自身のDNAを注入する。そのDNAには、ウィルスを構築するのに必要な情報が書き込まれている。宿主細胞は何も知らず、その外来DNAを自分の一部だと勘違いして複製を行う一方、DNA情報をもとにせっせとウィルスの部材を作り出す。細胞内でそれらが再構成されて次々とウィルスが生産される。それら新たに作り出されたウィルスはまもなく細胞膜を破壊して一斉に外へ飛び出す。
 ウィルスは生物と無生物のあいだをたゆたう何者かである。もし生命を「自己複製するもの」と定義するなら、ウィルスはまぎれもなく生命体である。ウィルスが細胞に取りついてそのシステムを乗っ取り、自らを増やす様相は、さながら寄生虫とまったくかわるところがない。しかしウィルス粒子単体を眺めれば、それは無機的で、硬質の機械的オブジェにすぎず、そこには生命の律動はない。
 ウィルスを生物とするか無生物とするかは長らく論争の的であった。いまだに決着していないといってもよい。それはとりもなおさず生命とは何かを定義する論争でもあるからだ。本稿の目的もまたそこにある。生物と無生物のあいだには一体どのような界面があるのだろうか。私はそれを一度、定義しなおしてみたい。
 結論を端的にいえば、私は、ウィルスを生物であるとは定義しない。つまり、生命とは自己複製するシステムである。との定義は不充分と考えるのである。では、生命の特徴を捉えるには他にいかなる条件設定がありえるのか。生命の律動?そう私は先に書いた。このような言葉が喚起するイメージを、ミクロな解像力を保ったままできるだけ正確に定義づける方法はありえるのか。それを私は探ってみたいのである。〜