うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

ハロウィンの練りきりと、『生物と無生物のあいだ』福岡伸一著


 池ノ原にお薄をいただきに行ったら、お菓子がハロウィンのかぼちゃでした!
良く出来ていたので、もって帰りたくなりましたが、食べてしまいました(笑)
 美味しかったです!
しつこいですが、ハロウィンっていつなのでしょうか?まだ調べていません(笑)



生物と無生物のあいだ福岡伸一著を、一気に読ませて頂きました。(『フロイトを読む』じゃなかったのか?ですね.....)
動的平衡』という言葉を知って何年になるでしょうか?しかし、記事などで言葉や福岡伸一さんを知っていても、本を読ませていただいたことはなかったので、わくわくしながら読ませて頂きました。
10年以上も前の本で、現在は異論も沢山出てきていますが、フロイトの批判みたいに、ある角度からみたら正解でも、違う角度から見たら間違いなんてよくあることですね!それを自分の周囲に在ることに、自分が上手く応用できるかどうかであって、人の批判はいくらでも出来ます(笑)今流行のプロ市民さんたちは、忙しいようですが.......。

秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない。
老子の『真実は流れの中にある』みたいなことを(道徳経をめっちゃ簡略しすぎw)大分前に、安部総理が所信表明で言っていましたが(全国紙の記者が、岡倉天心の言葉と記事に書いていましたが.....)、口実には使って欲しくないですね(笑)。

生命とは動的平衡にある流れである。は、なぜか道徳経の第八章を思い出しました。『真実は流れの中にある』は、第二十一章の引用というのが、一般的なようですが。

道徳経・第八章
最上の善とは水のようなものである。
水はあらゆるものに利益を与え、争わない。
それは人の嫌う地味な場所でいつも満足している。
このように、水は「道」に近いものである。
我々は住むために、地味な場所を好む。
いろいろな考えのためには、奥深さを好む。
友だちとの交わりには、心やさしさを好む。
言葉には、誠実さを好む。
政治には、良き秩序を好む。
出来事においては、能力を好む。
行動においては、正しい時を好む。
このように、我々は争わないから、まちがうことはない。


 アートも音楽もそうですが、古代と現代では、芯のところはあまり変わっていない気がします。

生物と無生物のあいだ福岡伸一
プロローグ
分子生物学的な生命観に立つと、生命体とはミクロなパーツからなる精巧なプラモデル、すなわち分子機械に過ぎないといえる。デカルトが考えた機械的生命観の究極的な姿である。生命体が分子機械であるならば、それを巧みに操作することによって生命体を作り変え、〝改良”することも可能だろう。たとえすぐにそこまでの応用に到達できなくとも、たとえば分子機械の部品をひとつだけ働かないようにして、そのとき生命体にどのような異常が起きるかを観察すれば、部品の役割をいい当てることができるだろう。つまり生命の仕組みを分子のレベルで解析することができるはずである。このような考え方に立って、遺伝子改変動物が作成されることになった。〝ノックアウト″マウス"である。
 私は膵臓のある部品に興味を持っていた。膵臓は消化酵素を作ったり、インシュリンを分泌して血糖値をコントロールしたりする重要な臓器である。この部品はおそらくその存在場所や存在量から考えて、重要な細胞プロセスに関わっているに違いない。そこで、私は遺伝子操作技術を駆使して、この部品の情報だけをDNAから切り取って、この部品が欠損したマウスを作った。ひとつの部品情報が叩き壊されている(ノックアウト)マウスである。このマウスを育ててどのような変化が起こっているのかを調べれば、部品の役割が判明する。マウスは消化酵素がうまく作れなくなって、栄養失調になるかもしれない。あるいはインシュリン分泌に異常が起こって糖尿病を発症するかもしれない。
 長い時間とたくさんの研究資金を投入して、私たちはこのようなマウスの受精卵を作りだした。それを仮母の子宮に入れて子供が誕生するのを待った。母マウスは無事に出産した。赤ちゃんマウスはこのあと一体どのような変化を来すであろうか、私たちは固唾を呑んで観察を続けた。子マウスはすくすくと成長した。そしておとなのマウスになった。なにごとも起こらなかった。栄養失調にも糖尿病にもなっていない。血液が調べられ、顕微鏡写真がとられ、ありとあらゆる精密検査が行われた、どこにもとりたてて異常も変化もない。私たちは困惑した。一体これはどういうことなのか。
 実は、私たちと同じような期待をこめて全世界で、さまざまな部品のノックアウトマウス作成が試みられ、そして私たちと同じような困惑あるいは落胆に見舞われるケースは少なくない。予測とと違って特別な異常が起きなければ研究発表もできないし、論文も書けないので正確な研究実例は顕在化しにくい。が、その数はかなり多いのではないだろうか。
 私も最初は落胆した。もちろん今でも半ば落胆している。しかしもう半分の気持ちでは、実は、ここに生命の本質があるのではないか、そのようにも考えてみられるようになってきたのである。
 遺伝子ノックアウト技術によって、パーツを一種類、ピースをひとつ、完全に取り除いても、何らかの方法でその欠落が埋められ、バックアップが働き、全体が組みあがってみると何ら機能不全がない。生命というあり方には、パーツが貼り合わされて作られるプラモデルのようなアナロジーでは説明不可能な重要な特性が存在している。ここには何か別のダイナミズムが存在している。私たちがこの世界を見て、そこに生物と無生物とを識別できるのは、そのダイナミズムを感得しているからではないだろうか。では、その〝動的なもの″とは一体なんだろうか。
 私は一人のユダヤ人科学者を思い出す。彼は、DNA構造の発見を知ることなく、自ら命を絶ってこの世を去った。その名をルドルフ・シェーンハイマーという。彼は、生命が「動的な平衡状態」にあることを最初に示した科学者だった。私たちが食べた分子は、瞬く間に全身に散らばり、一時、緩くそこにとどまり、次の瞬間には身体から抜け出ていくことを証明した。つまり私たちは生命体の身体はプラモデルのようなパーツから成り立っている分子機械ではなく、パーツ自体のダイナミックな流れの中に成り立っている。
 私は先ごろ、シェーンハイマーの発見を手がかりに、私たちが食べ続けることの意味と生命のあり方を、狂牛病禍が問いかけた問題と対置しながら論考してみた(『もう牛を食べても安心か』文春新書、二〇〇四)。この「動的平衡」論をもとに、生物を無生物から区別するものは何かを、私たちの生命観の変遷とともに考察したのが本書である。私の内部では、これが大学初年度に問われた問い、すなわち生命とは何か、への接近でもある。