うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

全肢連さんと、KEXPと、治療的な失敗を利用した才能

 夜勤明け、寝ようか悩んでいたら、法務局から電話があり、法人の登記の書類の不備を指摘されました(笑)小さな?物だったので、直して頂けたようですが、一字一句間違うとアウトなので、神経使います....。
 なので、目が覚めてしまい、共同生活援助の補助金の書類作成をしてしまいました。
取り敢えず、ひとつの市は完成!
 地元はまだ来ていませんが、こちらは収支予算書と休日に支援させて頂いた日を数えないといけなくて、それを済ませたので少しは楽にできます。
 常勤換算せな!



 7月にあった、びー玉ドローイングが、全肢連さんの全国版の広報に出たと、なっちゃんのお母さんが持って来てくださいました!
おかもっちゃんアップですね!アトリエ・カーグは乗らせて頂いただけなのに、カーグ側だけ写っていて申し訳ないです.....。
 皆さん楽しそうですね!コカ・コーラさんがスポンサーなんて羨ましい......。
中身をパラパラと読ませて頂きましたが、避難訓練などのページは役に立ちました。
 色んな場所で色んな方々頑張っているんだなとしみじみ思いました。

 

アートと音楽にはいつもアンテナを張り巡らせていますが、最近はKEXPにはまっています。良質の音楽が聞けます。
 今日は『Florence and the Machine - Cosmic Love』を聴きました。
皆さんいい仕事されています!
動画はこちら⇒https://youtu.be/_gMq3hRLDD0


 フロイトも少しだけ読ませて頂きました。
分かり易い解説付きなので、思いっきりフロイトに浸れます。


『あるヒステリー症例分析の断片(ドーラ)』 (1905e[1901])
転移の発見
伝記と歴史
治療的な失敗を利用した才能
 1900年にフロイトは『夢解釈』を出版したばかりで、『日常生活の精神病理学』を書き始めるところだった。本名イダ・バウアーIda Bauerのドーラはそのとき18歳の若い女性で、父親に言われてフロイトのもとへ相談に来た。フロイトは1900年10月に治療を始めたが、ドーラはそのわずか3ヵ月後に、突然中断したのであった。フロイトは最初とても落胆したが、その反応を克服し、その後すぐに転移現象に関するこの最初の観察記録を、2週間で書き上げた。
 彼はフリースに、この短い分析が2つの重要な発見をする機会を与えてくれたと書いた。第1の発見は、性源域、特に、ドーラの神経性咳の源である口腔域(口腔内域の性愛化)が果たす役割の重要性と関係があった。第2の発見は、男性に惹かれる気持ちと女性に惹かれる気持ちとの間で引き裂かれたドーラの葛藤において、心的両性性が果たす役割に関係した。フロイトはここで初めて、フリースから借りた両性性の概念を臨床的設定で適用した。その代わり、治療の中断に関してはフロイトは、転移を解釈するために時間内に突き止めそこなったので、転移を統御できなかったことを友人に認めた。しかしその失敗から彼が引き出すことのできたさまざまな帰結は、このすばらしい臨床観察を、転移について書かれた彼の最も重要な論文の一つとした。守秘義務上の理由からフロイトは、1905年まで出版を遅らせた。それでもかれの敵対者たちは彼を、患者の同意なしに症例報告を公にしたと厳しく非難した。
 その後ドーラはどうなったのだろうか。1903年に、彼女はエルネスト・アドラーErnest Adlerと結婚し、後にサンフランシスコ歌劇場の総監督となる。一人息子クルト・ハルベルトKurt Herbertを産んだ。1923年に彼女は、不安発作と男性に関する迫害感情に襲われ、精神分析かのフェリッタス・ドイチュFelix Deutschのもとを訪れた。彼は、彼女がフロイトの元患者であることに気づいた。その後1930年代の終わりまで彼女はウィーンのい住み、ペッピーナPeppina,別名「K夫人」の親友となった。K夫人は1905年の「症例ドーラ」論文で話題となっている人物である。ドーラは、マルクス主義者として知られオーストリアの元首相だった政治家の兄を捜していたナチスに拷問されて、アメリカ合衆国へ移住した。彼女は1945年にニューヨークで亡くなった。