『村雨』と『神経科学は、精神分析に取って代わったのだろうか?』(フロイトを読むより)
先日、名古屋に行った帰り、地下街で自死した母親が大好きだった『村雨』という和菓子に似た菓子を見つけたので買ってみましたが、半分はようかんでした......。母が普段用に飲んでいた、お茶を毎日飲んでいて、『村雨』を食べたいと思っていた矢先に目に入ったので、迷わず買ってしまいました(笑)
一日事務仕事で、夕方にあった唯一現場の仕事は、学齢児さんの入浴でした。それでやっと生きかえりましたが(笑)、本当に事務仕事は嫌です!現場向きなので、適材適所、宜しくお願い致します!他の職員さん(目上の方なので)も言っていましたが......。
頭が腐ったので(笑)帰宅後、最後の一切れを頂きました。
お抹茶は、明日、受診で豊橋まで出るので、そろそろ買おうかな?
11月まで待とうか? 思案中です(笑)
ネットで調べると、『村雨』は、由緒正しいお菓子だったのですね!
創業安政元年。泉州貝塚の地で百六十年。
江戸末期の安政元年(1854年)の創業当時より、 泉州銘菓村雨を作り続けております。村雨は、小豆と砂糖と米粉を原材料とした蒸し菓子。 和泉八景のひとつ「貝塚村雨」にちなんで名付けられました。村雨は、株式会社塩五の登録商標でございます。
塩五さんのサイトはこちらです。
http://www.shiogo.co.jp/
食べたい(笑)
『フロイトを読む』を真剣に読み出しましたが.......。難しいですね!こんなことをしていたなんて、自分は初めて知ったので、ぶん殴られた気分になっています(笑)が、理解できそうなところはしっかり勉強させて頂こうと思っています。(そういうしかないですね(笑))
下記の『フロイト以後』は、真剣に支援されている皆さんは、頷かれるのではないでしょうか?
『フロイトを読む』より
「心理学草案」 (1950c[1895])
精神分析を計量可能な科学的データーに基礎づける試み
●心的機能の統合されたモデルを求めて
研究者としての訓練の影響をまだ強く受けていたフロイトは、ニューロンと神経インパルスについての当時の神経生理学的知見を出発点にして、計量可能なデーターに立脚している心的機能の統合されたモデルを構築しようとする。また、彼が「草案」の中で提案する構想は、何よりもニューロンネットワークを循環するエネルギー量という考えの上に築かれている。それによって彼は、その時にまで積み上げてきた心理学的観察データーを、エネルギーの用語に移し換えることができる。〜
《フロイト以後》
神経科学は、精神分析に取って代わったのだろうか?
フロイトは生涯を通じて、多少とも近い未来には生物学と神経科学の進歩によって、精神分析が構想しているような心的機能をいっそう解明し、彼が「心理学草案」で挫折したところで成功できるようになるだろう、と考え続けた。彼は「おそらくは、フレンツィが話したような『生物分析学』なるものがいずれ実際に立ち上げられることになるだろう」(1933c:223,岩波21:299-300)と表明している。彼は、向精神薬による治療の到来にさえ言及する。「将来になれば、われわれは、特別な化学物質が、心の装置におけるエネルギーの量とその分配に直接影響するということを知るかもしれない」(1940a[1938]:182,岩波22:222)。
「草案」から100年経って、どうなっているだろうか。1950年代以後の向精神薬の発見と、生物学および神経科学における進歩に伴った熱中は、確かに今日の世界で精神分析が経験している衰退の原因となった。精神分析は精神療法の方法および大学教育の中で、特に合衆国で大きな地位を占めてから、さまざまな圧力を被るようになった。一般の見方が進歩して、ますます速効性の治療法や計量化できる結果に基づく効果査定を要求するばかりでなく、更に、社会的・政治的・経済的圧力が結び合わさって、種々の精神療法的アプローチを犠牲にして薬物療法を押しつけるようになっている。これらの要因に加えて、科学界からの見込みは、進行中の脳と記憶についての研究が既に、精神療法的関係に基づくアプローチを決定的に葬りつつあると告げている。だがそれらの研究は、まだ臨床実践に適用できるところからは遠い。
1998年、世界的に著名な科学者ナンシー・アンドレアセンNancy Andreassenは、薬物療法にも限界があることを突然さらけ出し、合衆国の人たちが今日直面している精神療法者の深刻な不足を告発するために、警告の声を上げた。「[……]私たちは、精神病理の科学と技術における新世代の本物の専門家の養成に本気で出資する必要がある。さもなければ、私たち高度技術の科学者は、10年後に目覚めた時、『沈黙の春』に面しているのを見出す可能性がある。精神病理学の専門的経験を持つ思慮深い臨床関係者抜きで技術を応用することは、独行的で不毛な、おそらく実りのない企てとなるだろう」(Andreassen 1998:1659)
※『沈黙の春』…レイチェル・カーソンRachel Carson(1962)による著作、『沈黙の春』への言及。その中で人類は、もはや春の朝目覚めても、鳥のさえずりを聞かない、鳥たちは地上から消えてしまったのだった。