うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

ノラ・ジョーンズの新譜と、『患者の探求の本質』(患者から学ぶより)


 『デイ・ブレイクス』 Day Breaks
発売日:2016年10月5日
日本先行品番:通常盤[SHM-CD] UCCQ-1065
価格:¥2500(税抜)+税

ノラ・ジョーンズの新譜が出る様ですね!
ちょこっと聴いてみたら、最初の感じに戻っていて良い感じでしたので欲しいな(笑)買ってもらえないので、レンタル待ちます(笑)




 書類の訂正の訂正で頭が腐ってしまいました(笑)本当に事務能力がありません......。いましているのは、司法書士さんに頼めそうなところでしょうか?相談しに行こうかな?

給与計算も間違いがあった様で、ますます自信がなくなっています......。こちらもお願いしましょうか?

 なので、今日もストレス解消のキーボードの早打ちしてしまいました(笑)
誤字脱字がなくなれば、もっとみなさんに貢献できるのでしょうが......。

 


 昨日読んだ箇所でしょうか? もう一度基礎に頭を戻してくれました。
ケース会議や色んなことがありましたが、まあ、なるようにしかなりませんね!(笑)
 取り敢えず自分は自分に足りないところを、勉強させて頂きます!



患者の探求の本質
 患者たちが精神療法的援助を探し求めるときは、両親、もしくは、それ以外の保護者たちが、苦悩からのさまざまな信号にそれまでに適切に反応しそこなったからであることが多いものです。捜し求めているという患者のサインに反応できる誰かを見出すという無意識の希望を抱き続けていることも多いのです。これらのヒントは子ども時代のそうしたものとよく似ていますが、そのうちいくらかは認識されないままだったか、注意を払われないままだったのでしょう。
 臨床経験や幼児観察はともに、生存のために、成長のために、そして健康な発達のために必要なものを求める生まれながらの探求心が(誕生とともに)あるという考ええを支持していると私は思います。この探究が挫折したり、妨げられているときにこそ、適切に出会えなかった要求についての健康な指針が存在しているのです。
 ここで私は、かなえられる必要のあるものneedsとほしいものwantsとの間に区別を設けています。生誕時にはその区別はありません。次第に増してくる欲求不満を取り扱える度合いにもちこたえていく能力の発達とともに、ほしいものから成長に必要なものは区別され始めます。小さな赤ん坊は母親を「ほしがります」。なぜなら、母親がいることが必要とされるからです。授乳されること、吸うこと、かみつくことなどのリピドー的要求の表出と同じように、成長に必要なものがありましょう。はじめは、それらはとても基本的なことで、抱かれる、話しかけてもらう、遊んでもらう、そして、楽しませてもらうなどといった必要なものでしょう。母親は、これらの自然なままの要求を充たしていくなかで、幼児のそれに続く成長や発達の土台を準備しています。
 やがて、幼児の成長に必要なものに、その幼児が取り扱える程度の分離separatenessを見出す必要性が含まれていきます。そして、のちには、かまうこととのつながりを失わない、断固とした態度firmnessや対決confrontationが成長に必要なものとされるときが来ます。このことはかんしゃくによってしばしば試されるのですが、それは母親に対しての幼児の以前の支配を取り戻すことをめざしています。なぜなら、子どもは必要なものとほしいものの区別を認めたくないからです。ですから、かんしゃくのなかでの強烈なほしがり方はまったく必死なように見えます。しかし、その子どもの成長に適切な時期に、「いいよ」と言う方がずっとたやすいときに「だめ」と言うことでひどく扱われることにもちこたえうるほどに充分世話してくれる親を求めてもいます(Casement 1969)。必要な断固とした態度を見出すことを通して、子どもは安心を見出しもします。これが見出されないと、子どもの要求demandsは充たされましょうが、それは常にうつろな勝利なのです。その子は安心感が持てないままですし、要求が少なくなるどころかもっと要求がましくなります。 患者たちは成長のこれらのいろいろな段階を治療経過のなかで再演します。ですから、治療者は、挫折させられる必要があるリピドー的要求と充たされる必要がある成長に必要なものとを識別しようとすべきです。目を向けられる必要があることとして成長に必要なものがまさに呈示されていいるのを治療者が認識しそこなうときに、治療的な機会が失われてしまっていることがあると私は思っています。たとえば、患者によっては実際のインパクトを治療者に与えたいという証拠を得ることを必要としています。もしくは、個の知覚は空想や転移にすぎないわけではないとのその臨床上の現実において確固とした知覚についての確証を必要としていましょう。もし、治療者が、これらの必要性を、分析技法上機械的に求められていることと考えて、それに忠実に挫折させてしまうなら、患者は失望してしまいます。
 患者は彼に必要なものを探しているのですが、たいてい、治療者は熟練者、最良を知っているに違いない人と見なされます。ある意味で、彼はこの責任を受け入れねばなりません。ですから、治療の管理がまったく治療者の手にあるものと考えられ、どんな意味でも患者に置かれるべきではないとのことはまったく普通のことです。つまり、(意見のあるところでしょうが)治療がどんなふうに進められるべきかを患者が自分の頭で考えることが許されるなら、治療はどこに向かうでしょうか?このことは治療者が患者とのなれあいに落ち込んでしまうことに終わらないでしょうか?それは、洞察よりもむしろ不適切な満足を与えることで患者の病理へとたわむれ入ってしまわないでしょうか?そして、分析は「禁欲」の状態のものに導かれれべきである(Freud 1914:163)とフロイトが主張していた種類の落とし穴をそれは部分的にも回避することにならないのでしょうか?すべての患者のなかの抑圧されたリピドー渇望に彼はとてもよく気づいていました。彼が、分析治療のなかで充足されるべきではない、なぜなら充足されることで分析の作業が迂回される、と主張したのはこれらの渇望についてでした。
 ある患者のたちのなかでは、自分が無意識に治療のなかに探しているものは何なのだろうかとの際立った感覚と私は出会ってきました。けれども、患者の探し方はおうおうにして単刀直入ではなく、たやすく同定できないものです。ときおり、なにが必要なのかについてのはっきりとした手がかりがあります。また、別のときには、このことを見出すことへの絶望の高まりは、あたかもさらなる代用満足だけが望めるもののすべてであるかのように、それを求める重圧によって示されたりします。しかし、それにもかかわらず、この重圧のもとで、患者に何が手に入らなかったのかを認識することはしばしば可能なのです。
 患者が成長での必須の発達相をその中でより安全に切る抜けることができたであろう、適切な構造が欠けてしまっていたのなら、その治療関係において構造が探し求められます。幼児を世話している人物が充分な反応性を欠いてしまっていたなら、それがなくては前言語的にコミュニケートしようとする幼児のなかに反応性が探し求められます。そのなかで、子どもが母親(もしくは、ほかの大人)からの実現可能な分離を築き始められるような、心的もしくは情緒的なプライバシーが欠けていたなら、空間が探し求められます。
 例をあげると、プライバシーや秘密性を必要としている患者たちは、しばしば、治療のなかにさえこれらが見つけ出せないだろう、との恐れをその初めから伝えておきましょう。また、不適切な個人の境界が存在していたあいだがらを体験してきた患者は、治療のなかでの境界についてのより断固とした感覚を必要としていることをはっきり示しておきましょう。このことは、これが見つけ出せないという患者の不安のなかに直接に、もしくは、治療者の適切な断固としたところがないことには含み込まれえない振舞いを通して間接的に、コミュニケートされましょう。さらには、患者の自律的な思索が、それらをさっと考えてしまうほかの人たちによって妨げられてきていたなら、その患者は治療者の解釈活動に受動的にたびたび盲従するでしょう。逆に、―沈黙しているときでさえ―「見抜かれる」とか、彼らの考えが彼ら自身だけのプライベートなものではない、との不安をみせたりもしましょう。こんなふうに、以前の病理をもたらした体験の結果を治療関係のなかに持ち込むことで、患者は治療過程において取り扱われる必要のあるものをしばしば示してきます。