うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

法務局への書類と、お薄と『アイデンティティと暴力』運命は幻想である


 昨日は、夜勤明け(職員の都合で今日も夜勤ですが(笑))法務局へ提出する書類をやろうと思っていたら、市役所から電話があり、親分ではだめなので(笑)おっちゃんが書類の訂正をしに来てくださいと(笑)市役所に行ったり、事務所に行ったりで結局、夕方三人の入浴介助に参加させて頂き、今日、法務局へ提出する書類を作成しています。
 ひとつの事業をするだけで、こんなに事務仕事があるので、大変です。(単に能力がないだけですが......。)
 頭が腐った時は、甘い物が欲しくなるので、市役所帰りにコンビニでお餅を買って、お薄を点て、仕切り直しました。
 そういえば、先月も市役所に呼び出されて、親分の書類訂正しに行きました(笑)。昨日、現場で国保連の請求をして下さっている職員さんと会計をして下さっている(人生の先輩なので敬語です!)職員さんが、親分が事務仕事をやっていると、施設自体がそういう風に見られるのでは?との危機感から?二人で協力してして下さる(親分の事務仕事を)との、力強いお言葉を頂いたので、ひとまずは安心しています。
親分には、社長業に徹して頂きましょう!


 最近、本をパソコンに猛スピードで入力するのが、ストレス解消になっているので、昨夜、寝る前にストレス解消をしてみました(笑)
 下記の文章です。
 アイデンティティは、自分の中だけに存在するものだと今まで思ってきましたが、外側からの圧力で、無理やり押し付けられるというのも(無意識の中で)そういえばあるな、と思いました。

アイデンティティにもとづく考えが、これほど残虐な目的に悪用されうるのであれば、解決策をどこに見いだせばよいのだろうか? アイデンティティをかき立てることを全般的に抑圧または阻止する方法では、まず改善されない。なんと言っても、アイデンティティは暴力や恐怖の源であるのと同時に、豊かさやぬくもりの源にもなるからだ。アイデンティティを一般的に邪悪なものとして扱うことは、ほとんど意味がないだろう。むしろ、好戦的なアイデンティティの勢力には、相反する複数のアイデンティティの力で対抗できると考えなければならないだろう。だれもがもつ人間性という幅広い共通のアイデンティティはもちろんのこと、そぞれの人が同時にもつ多種多様なアイデンティティもそこに含めることができる。こうした考え方は人間を別の観点から分類する方法へとつながり、一つの分類法だけがとくに攻撃的に利用されるのを抑止するだろう』

 狭義のアイデンティティではなく、広義のアイデンティティを感じる様にならなければいけないのですが、それぞれの立場があり、難しいのでしょうね......。
 学校で、道徳なんかよりも、精神分析の考え方を分かり易くして本にしたほうが、自分を見つめる事ができるのでは?と昨夜も思ってしまいました。
 この本を読ませて頂いていると、アイデンティティの意味が分からなくなってきてしまったのも事実ですが....。


アイデンティティと暴力』運命は幻想である
アマルティア・セン著・大門 毅監訳・東郷えりか訳
第1章 幻想の暴力
アフリカ系アメリカ人の作家ラングストン・ヒューズは、一九四〇年に書かれた自伝『大海』のなかで、ニューヨークを発ってアフリカへ向かったときに味わった心の昂揚を描いている。それまでアメリカで読んできた本を海中に投じると、「まるで心のなかから一〇〇万個の煉瓦を根げ捨てたようだった」。なにしろ、「黒人の母なる大地、アフリカ!」へ向かう途上なのだ。もうまもなく、「ただ書物のなかで読むだけでなく、手で触れ、目で見ることのできる本物」を体験できるだろう、と彼は書いた。同一性(アイデンティティ)の共有意識は、単に誇りや喜びの源となるだけでなく、力や自信の源にもなる。アイデンティティという考えが、汝の隣人を愛せといったお決まりのうたい文句から社会関係資本ソーシャルキャピタル)や共同体主義コミュニタリアニズム)の自己認識の高尚な理論にいたるまで、幅広くもてはやされていることは驚くに値しない。
 だが、アイデンティティは人を殺すこともできる。しかも、容易にである。一つの集団への強い―そして排他的な―帰属意識は往々にして、その他の集団は隔たりのある異なった存在だという感覚をともなう。仲間内の団結心は、集団相互の不知をあおりやすい。たとえば、ある日突然、われわれはルワンダ人であるだけでなく、厳密にはフツ族なのだ(だから「ツチ族を憎んでいる」)と教えられたり、本当はただのユーゴスラビア人ではなくて、実際にはセルビア人なのだ(だから「ムスリムなど絶対に嫌いだ」)と言われたりするのだ。私は一九四〇年代の分離政策と結びついたヒンドゥームスリム間の暴動を経験した子供のころの記憶から、一月にはごく普通の人間だった人びとが、七月には情け容赦ないヒンドゥー教徒と好戦的なイスラム教徒に変貌していった変わり身の速さが忘れられない。殺戮を指揮する者たちに率いられた民衆の手で、何十万もの人びとが殺された。民衆は「わが同胞」のために、それ以外の人びとを殺したのだ。暴力は、テロの達人たちが掲げる好戦的な単一基準のアイデンティティを、だまされやすい人びとに押しつけることによって助長される。
 アイデンティティ意識は、ほかの人びと、つまり隣人や同じ地区の住民、同じ宗教の信者などとの関係を強め、温めるうえで重要な役割を果たす。特定のアイデンティティは関心を向けることによって、われわれは連帯感を高め、お互いに助け合い、自己中心的な営みを超えた活動をするようになる。近年、ロバート・パットナムらによって精力的に探究された「社会関係資本」に関する研究は、社会集団内の人びとがアイデンティティを共有することによって、内部のあらゆる人の暮らしが改善されることを、たいへん明快に示してきた。そのため、ある集団への帰属意識は資源として、資本の様に見なされるようになった。そのような理解は重要だが、アイデンティティ意識は人びとを温かく迎える一方で、別の多くの人びとを拒絶しうるものであることも、あわせて認識しなければならない。住民が本能的に一致団結して、お互いのためにすばらしい活動ができるよく融和したコミュニティーが、よそから移り住んできた家の窓には嫌がらせのために煉瓦を投げ込むコミュニティーにも同時になりうるのだ。排他性がもたらす災難は、包括性がもたらす恵みとつねに裏腹なのである。
 アイデンティティの衝突によって助長される暴力は、世界各地でますます執拗に繰り返されているようだ。ルワンダコンゴにおける勢力の均衡状態は変わったかもしれないが、一方の集団がもう一方を標的にする状況は、激しさを増して続いている。スーダンでは人種対立を利用して、イスラム過激主義のアイデンティティをつくりあげたことが、恐ろしく軍国化したこの国の南部で、抑圧された人びとがレイプされ殺戮される事態を生みだした。イスラエルパレスチナは、いまなお二極化されたアイデンティティの猛威を経験し続けており、相手側に憎悪の報復をすべく備えている。アルカイダは、欧米人を標的にする戦闘的イスラム主義のアイデンティティを育み、利用することに大きく依存している。
 さらに、自由と民主主義の旗印のもとに派兵されたアメリカやイギリスの兵士の一部が、非人道的な方法で捕虜を「軟化」させる活動をしていたという情報も、アブグレイブ刑務所などから続々と入ってきている。敵の戦闘員や悪人と見なされた容疑者の人命に対する無制限の権限が与えられることによって、看守と収容者は対立するアイデンティティ間の硬直した境界線(「彼らはわれわれとは異なる種族だ」)によって明確に二分化されている。境界線の向こう側にいる人びとのさほど対立しない別の側面、たとえば彼らが同じ人類の仲間であることなどは、総じて黙殺されているようだ。

■相反する帰属を認める
 アイデンティティにもとづく考えが、これほど残虐な目的に悪用されうるのであれば、解決策をどこに見いだせばよいのだろうか? アイデンティティをかき立てることを全般的に抑圧または阻止する方法では、まず改善されない。なんと言っても、アイデンティティは暴力や恐怖の源であるのと同時に、豊かさやぬくもりの源にもなるからだ。アイデンティティを一般的に邪悪なものとして扱うことは、ほとんど意味がないだろう。むしろ、好戦的なアイデンティティの勢力には、相反する複数のアイデンティティの力で対抗できると考えなければならないだろう。だれもがもつ人間性という幅広い共通のアイデンティティはもちろんのこと、そぞれの人が同時にもつ多種多様なアイデンティティもそこに含めることができる。こうした考え方は人間を別の観点から分類する方法へとつながり、一つの分類法だけがとくに攻撃的に利用されるのを抑止するだろう。 
 ルワンダの首都キガリ出身のフツ族の労働者は、自分をフツ族としてのみ見なすよう圧力をかけられ、ツチ族を殺せと駆り立てられるかもしれないが、彼はフツ族であるだけでなく、キガリ市民であり、ルワンダ人、アフリカ人でもあり、労働者であって人間でもある。われわれには複数のアイデンティティがあり、それらがさまざまな意味合いをもつことを認識するとともに、多様にならざるをえないこうしたアイデンティティのなかから、特定のアイデンティティという幻想が、尊敬を集める―事実、尊敬に値するーさまざまな学派の知識人から、善意からとはいえ、支持を受けており、それが甚大な被害をもたらしている事実は知っておく必要がある。そうした知識人にはとりわけ、熱心な共同体主義者(コミュニタリアン)が含まれる。彼らにとって、コミュニティのアイデンティティはあたかも生まれつき運命づけられたものであり、個人の意思決定など必要なく(彼らの表現で言えば、ただ「認識」するのみ)比類のない至高のものなのだ。また、世界の人びとを文明ごとの狭い枠で分割する、揺るぎない文化論者もそのなかに含まれる。
 日常生活のなかでわれわれは、自分がさまざまな集団の一員だと考えている。そのすべてに所属しているのだ。国籍、居住地、出身地、性別、階級、政治信条、職業、雇用状況、食習慣、好きなスポーツ、好きな音楽、社会活動などを通じて、われわれは多様な集団に属している。こうした集合体のすべてに人は同時に所属しており、それぞれが特定のアイデンティティをその人に付与している。どの集団をとりあげても、その人の唯一のアイデンティティ、また唯一の帰属集団として扱うことはできない。