うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

NHKが日テレ「24時間テレビ」に殴り込みか? フィナーレに「笑いは地球を救う」をぶつけ「何か起こる…」と予告と、田んぼにネコと、外食と、梅原猛VS鈴木大拙?

産経新聞のネットニュースで下記の様な記事がありました。
NHKもやりますね!
NHKが日テレ「24時間テレビ」に殴り込みか?フィナーレに「笑いは地球を救う」をぶつけ「何か起こる…」と予告
産経新聞 8月27日(土)15時21分配信
「愛は地球を救う」のキャッチフレーズで親しまれている日本テレビ系恒例特番「24時間テレビ」が、今年も8月27、28日に放送される。一方、同番組が最終盤に差し掛かる28日午後7時からは、NHKのEテレが「笑いは地球を救う」と銘打った番組の生放送を予定。これに対し、インターネット上では「『24時間テレビ』へのアンチテーゼでは」などと注目が集まっている。

 その番組とは、NHKEテレ「バリバラ」(日曜午後7時)。「バリアフリー・バラエティー」を略した、障害者やマイノリティーのための情報バラエティーだ。普段は収録済みの内容が放送されることが多いが、28日は「検証!『障害者×感動』の方程式」をテーマに生放送するという。

 「なんで障害者ドラマは感動話ばかりなの?」「なんで感動されないといけないの?」

 予告動画などによると、そんな疑問を、スタジオやVTRなどで出演者が考えていく内容のようだ。

 これだけを見ると、有名人と障害者の交流や、障害を扱った特別ドラマなど、さまざまな企画で「感動」を伝えてきた「24時間テレビ」に疑義を呈したような内容にも感じられる。ただ、NHK広報部は、「24時間テレビ」との関連性や放送日時が重なったことについて「他意はない」としている。

     ◇

 そもそも「バリバラ」は平成24年に放送スタート。熊本地震での障害者の状況や、相模原市の障害者施設で入居者19人が刺殺された事件を取り上げるなど、硬派なテーマを扱う一方で、笑いの要素を盛り込んだ意欲的な企画も続々と送り出しているのが特徴だ。

 例えばマイノリティーのお笑い日本一を決める「SHOW−1グランプリ」という企画は、出演者が自身の障害をネタにしたコントや漫才などを披露し合うもので、既に第4弾まで放送されている。

 また、26年に番組内で放送されたドラマ企画「悪夢」は、統合失調症の男性とダウン症の男性の交流を「ハートフルコメディー」として描き、脚本を担当した宇田学さんは市川森一脚本賞奨励賞を受賞。番組プロデューサーは昨年5月の授賞式で、「番組のモットーは『NO LIMITS』、限界なし」と語っていた。

 公式サイトでは、番組の狙いについて「『生きづらさを抱えるすべてのマイノリティー』の人たちにとっての“バリア”をなくすために、みんなで考えていきます」と説明。タブーとされがちなテーマを異色の企画や演出で描くことで、視聴者に驚きと違和感を与える−。それによって、視聴者が無意識のうちに抱いている障害への「バリア」もまた、浮き彫りになる。

 NHKは28日の生放送について、番組の公式サイトで「何かが起こる…」とも予告。ステレオタイプな「障害者×感動」という構図に一石を投じ、視聴者の思い込みを揺さぶる内容にはなりそうだ。(三品貴志)


こちらでは当たり前の風景ですが、大阪人にしたら、田んぼにネコなんて不自然な感じがしました(笑)いつも見ているのに、なぜか今日はつまらないことに引っかかりました(笑)なぜでしょう(笑)


 今日のうたたねは、ホームの方とショートの方で志都呂のイオンまで行き、昼食を摂って来ました。昼食後、散歩をされる方、本屋さんに行かれた方、パン屋さんに行かれた方、おもちゃ屋さんに(笑)行かれた晴君!日中一時の方が熱発でキャンセルになり、少人数だったので行くことが出来ましたが、お大事にしてくださいね!

 明日はカーグとバンドクラブの日です!
何を描くのか?楽しみにして下さいとのことです(親分談)ので、お楽しみに!


 スティーブ・ジョブズで、最近見直されている『禅と日本文化』を書いた鈴木大拙ですが、若き梅原猛先生が噛み付いています(笑)しかし梅原先生の洞察力(勿論、碩学ですが....)には、時代を超えても凄さを感じます。西田幾多郎に憧れて京大に入られましたが、2か月後に西田は亡くなってしまいます.....。
 鈴木大拙と西田は同郷の同級生だったのでは?検索してみてくださいね(笑)
 色々書いてはおられますが、一番深い所には『後人は、先人の仕事の意味と限界を知ることによって、おのれの仕事の方向を見出すことができるからである。』の言葉が流れているのだと思われます。

『美と宗教の発見』梅原猛
第一部文化の問題


『日本精神史研究』の恣意性
〜後人は、先人の仕事の意味と限界を知ることによって、おのれの仕事の方向を見出すことができるからである。〜




『日本的霊性』から『霊性的日本の建設』へ
 もしもディルタイ(一八三三〜一九一一)がいうように、文化というものは精神の客観的な表現であるとすれば、日本文化は日本精神の客観的表現ということになり、したがって日本文化論は同時に日本精神論を必要とするであろう。
 昭和十五年に『禅と日本文化』を書いて日本文化論を試みた鈴木大拙は昭和十九年大東亜戦争たけなわの頃、『日本的霊性』という本を書き日本精神について論じた。鈴木が日本的霊性というはなはだ聞きなれない言葉を用いたのは二つの理由によるのであろう。一つは、当時流行していた国家主義的な日本精神論に対して、自己の精神論を区別しようとするためであろう。国家主義的な日本精神論は、はなはだ排他的で同時にはなはだ浅薄である。真の日本的精神はむしろ普遍的でしかも宗教的である。日本精神、日本精神と普通言われているものには深い宗教的自覚が欠けている。日本の伝統的精神をそのような魂のない浅薄な伝統によって考えるべきでなく、深い宗教的な魂の自覚として考えるべきであると鈴木は言う。
 しかし鈴木が霊性という言葉を使ったのは、そのように自己の日本精神論を国粋主義的な日本精神論と区別するためのみではない。彼は霊性という言葉に、ただ物質にたいする精神という意味ではなく、精神と物質、主観と客観との対立以前の根源的なものを意味させようとする。この主客対立以前の根源的なものは、鈴木の親友西田幾多郎もまた生命をかけて究め尽そうとしたしたものであろうが、鈴木はこれを大地的霊性と呼んでいる。大地的霊性とは、その土地に深く根を張って、そこからもろもろの生命を生み出し、そこへもろもろの生命を帰す魂の根源的な故郷というべきものを言うのであろうか。
 ところでこの『日本的霊性』なる本は、霊性の一般的定義を終えて後、ただちに「鎌倉時代と日本霊性」なる篇にはいってゆく。鈴木は奈良、平安時代はまだ日本的霊性の自覚が十分でなかったと言う。日本的霊性は長い間冬眠をしていたのである。軟弱な平安時代の貴族の生活、そこには大地的霊性の目覚めなるものはどこにもない。日本的霊性の登場は土に親しむ階級である武士と農民が歴史の舞台に登場してくる鎌倉時代に始まる。そしてこの武士と農民の魂の救いとなった禅と浄土系の仏教において、日本的霊性の真の自覚が始まる。この鎌倉時代の深い日本的霊性の自覚の内で、禅は主として知の部分を、浄土系の仏教は主として悲の部分を代表する。こうして鎌倉時代においてもっとも深い自覚に達した日本的霊性は、以後多くの宗教的人格のなかに、たとえば盤珪(一六二二〜一六九三)や、鈴木正三(一五七九〜一六五五)や、妙好人・才市のなかに脈々とつたわっていると言うのである。この日本的霊性という概念による日本精神論は、当時としては多少大胆な国家主義批判の意味を含んでいた。そして当時書かれた日本精神論のほとんどは、便乗主義の産物にすぎず今日もなおわれわれにある精神的反省を与える。
 しかしここでも再びわれわれが、この日本的霊性論の精神史としての客観的正しさを問うとき、われわれは多くの疑問に逢着せざるをえない。はたして日本的霊性は建国のはじめから鎌倉時代まで冬眠していたのであろうか。一千年もの間冬眠し続けるとは、よほど眠り好きな日本的霊性であらせられるようである。鎌倉時代において日本的霊性はお目覚めになると鈴木は言うが、なぜ禅と浄土で霊性はお目覚めになり、日蓮宗においてお目覚めにならないのか。この理由を明らかにするには、日蓮宗に対する厳しい批判がひつようであろうが、鈴木はそうした批判を行うことなく、禅と浄土教に日本的霊性はお目覚めになるというのみである。眠り好きな日本的霊性よ、私は『日本的霊性』を読みながら、この眠り好きな日本的霊性に一かつをくらわして、この霊性を長い眠りから覚ましてやりたい誘惑を感じたが、ひょっとしたら眠っているのは鈴木の眼の方で、日本的霊性聖徳太子(五七四〜六二二)において、行基(六六八〜七四九)において、空海において、最澄(七六七〜八二二)において立派に目覚めていたにもかかわらず、眠っている鈴木の眼の方が、さめているものを眠っていると見違えたのかもしれない。鈴木によれば、日本的霊性は彼がもっとも興味を持つ宗派の中にだけ目覚めるかのごとくである。彼はまず禅に興味をもったが、後に大谷大学に就任した彼は、浄土教、特に浄土真宗に興味を持った。日本的霊性は、彼の興味の範囲の中においてのみ目覚めるかのごとくである。私は親鸞道元(一二〇〇〜一二五三)に深い宗教的精神が宿っていることを否定しようとは思わないが、同時に空海日蓮の中にも深い宗教的自覚を見るものである。鈴木が語るように、妙好人・才市の中にもある深い精神を認めるものであるが、それ以上に私は木喰明満(一七一八〜一八一〇)の中に自由で創造的でしかも深い宗教的な魂を見るのである。前者のみに日本的霊性を見るのは、宗教的に無知でなかったら、宗派的偏見のせいと言わねばならない。〜