うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

久し振りの金曜日の散歩と、草刈りと、「甘え」の構造より


今日も暑かったですね!
久し振りに、金曜日の散歩に当たりました!
 夜勤が多かったので、久し振りでした。
空も夏って描いたような色してました!

 貯水池の中道が水位低下で見えていて、御身渡りのようでした(笑)

 こちらはアオコでしょうか? こんなに発生したら、魚たちは呼吸が出来るのでしょうか?
台風が来るので、月曜日には多量に雨が降るから大丈夫でしょうか?
大きな台風なので、災害が心配ですね!

 朝は早めに出て、渥美の送迎の前に、すろーじゃむの畑と庭?の草刈りをして来ました。本当に直ぐに伸びます.....。
 イチゴとブドウが、水分不足になっていたので、水も沢山やってきました。晴天が続いているので病気にはなっていませんでしたが、干からびていたイチゴの苗がほとんどでした。まあ、狭いので丁度よい間引きになりました。
 雨が降らないと降らないで困りますが、先日の北海道のように降り過ぎても、災害が起きるし、困ったものですね....。
 自分にはこれ以上の災害は起きないように、祈るしかできませんが......。

 午後からは、万場調整池を一周歩いてきました!
ところどころ日陰もあり、ちょうど良かったです。


 せっかく土居健郎先生の「甘え」の構造を読ませて頂いたので、もう一回だけアップさせて頂きます。
 
 最初は、何回読ませて頂いてもなぜか心に残る箇所で、もう一つは昔は引っかからなかった箇所でしたが、現在は読み込んでしまった箇所でした。

 京都時代、独立したてで、がむしゃらに仕事をしていて無理がたたって、心臓がついて来れなくなり(笑)立ち上がった時に、意識がなくなって、気が付いたら病院のベッドで「ニトログリセリン!」(舌下錠)なんて、恐ろしい単語が飛び交っていたこともありました(笑)
 それから約3年は、自律神経が整わず、冬なのにランニングシャツで仕事してたり、熱いお茶を飲むと脈拍が異常に早くなったり、厚意でしてくれていた中国針(バンマスが無料で何回もしてくれました)に電気を通したらまた、心臓発作が起きたり、あの時は苦しみました(笑)
 仕事を継続的に貰えるようにしようと、いつ寝ていたのか?今考えても
分からない生活だったので、倒れるのは当たり前だったのでしょうね(笑)
 治るのもしっかり、同じ3年かかりました......。
 でも悪い事ばかりではなく、自分の限界が分かり、人を使う様になったりしたので、売り上げも段々上がって行きました。若い時は、病気などしたらそれなりにスパイラルアップできていましたが、今は、あの時の様な無茶は出来ません(笑)
 長くなりましたが、その苦しんでいた時に、森田療法の本を必死で読んでいたり、太秦にあった心療内科森田療法をしていると聞いて行ったりもしたので、余計に引っかかったのでしょうね!
クライン派の発展』は、クラインが終わり、ビオンに入りました。
森田療法も集団を意識したないようでしたが、ビオンもそうですね!



第1章 「甘え」の着想
〜私はその後間もなく日本語で甘えについての最初の短いエッセイを書いた。その冒頭で私は大仏次郎の「帰郷」から次の一節を引用した。「肉親だからといって余計に甘えたり憎んだりする日本人の感情だな。あれがおれはいやだ。それだけは卒業したつもりだ。隣の他人とどう違うのだ。」この小説は当時バークレーのインターナショナル・ハウスで知りあった数学者伊藤清教授のすすめで読んだものであったが、右に引用した箇所を見つけた時、たまたま私自身異郷にあって甘えの問題を考えていただけに、この言葉をのべている主人公恭吾の気持ちに深く共感したものと思われる。そこで私は右の一節を引用した後、次のように書き加えた。「これは外国でしばらく生活した者だけが、これを感じとることができるのではなかろうか。」私は自分自身の中で、初めてアメリカにいった時に受けた文化的衝撃によって何者かが変化したことを自覚していた。私は新しい感性を得て日本に帰ってきたが、それ以来私の眼の前に浮かび上がってきた日本人の特徴は、「帰郷」の主人公恭吾が見たのと同じく、甘えの一語が最もよくあらわすことができる何ものかであったのである。〜



第4章「甘えの」の病理
「とらわれ」の心理
「とらわれ」というのは神経質と称される一群の患者に共通して働いていると考えられる精神作用に対して、森田正馬がつけた名前である。神経質というのは、頭痛、動悸、疲労、胃部膨満感など、種々の身体的症状に悩まされるが、検査の結果特に身体的異常を認めない場合の総合的名称である。なお身体的症状の他に、何らかの恐怖・不安・羞恥を強く訴えるものも神経質ということがある。森田は神経質の成立について次のごとくのべている。
 「ある感覚に対して、注意を集中すれば、その感覚は鋭敏となり、この感覚鋭敏は、さらにますます注意をその方に固着させ、この感覚と注意があいまって交互に作用して、その感覚をますます強大にする。」森田はこの精神過程を精神交互作用あるいは「とらわれ」と呼んだが、実際の患者指導に際しても、「あなたは何々にとらわれている」と告げたことがあったように思われる。そして軽症の患者ならば、それまで身体のどこが悪いと思ったり、あるいは何かのことをただ恐がっていたのに、それにとらわれていることが問題だと知って、はっと気持ちが変わることも少なくなかったであろうと思われるのである。
 さて森田が神経質患者の「とらわれ」に注目したのは大変大きな功績であるといってよいが、その説明として彼が設けた精神交互作用の説はそうもそれだけでは不充分であるように思われる。たしかに現象としては、注意と感覚の相互増強と見えるものが神経質患者に観察されることが少なくはない。しかしこれは一種の悪循環であって、すべての悪循環がそうであるようにそれを起こすもともとの原因は別に存しなければならないはずである。森田も恐らくそのことに気付いていたのであろう。それで交互作用が起きるのはヒポコンドリー性気分があるとのべたのであろうと思われる。しかし次には、ヒポコンドリー性気分とは何かということを明らかにせねばならぬが、森田はそれを誰でもが持つ疾病ないし死の恐怖であるという風に簡単に片付けてしまった。ともかくこれで一応理屈はつく。しかし勿論神経質の患者に以上のことを説明したからといって、それで恐怖がすぐにとれ、とらわれがなおるというわけにはいかない。そこで森田は作業療法によって患者の注意を精神交互作用から引き離すとともに、他方日記指導やグループ指導によって繰り返し「とらわれ」の事実を患者につきつける方法を採用したと思われるのである。
 今ここで森田の説をかなり詳しく紹介したのは、森田のいう「とらわれ」の心理が甘えの心理と関連があり、その病的なヴァリエーションとして了解することができるからである。森田の説は従来、日本独特の神経症理論として国内で評価され、海外にもそのように伝えられたのであるが、森田のいう「とらわれ」が甘えと類縁の心理であるとすれば、この点は一層はっきりとしてくるであろう。私はこのような考えに、神経質患者を精神分析的に治療するうちに導かれた。彼らはすべて対人的に過敏な性質を持ち、治療関係の中でもしきりと気がねやこだわりを示すが、この種の対人感情がつのると同時に、症状の方は減退してゆくことが観察された。
 前にものべたごとく、気がねやこだわりは秘められた甘えに発する。そこで私はこのことから次のような結論を引き出した。すなわちこの種の患者は甘えたくとも甘えられない心境にあり、そこに彼らの基本的な不安が胚胎する。彼らはその不安を自己の中に包み込むことができず、いわば不安に駆られて生活しているので、それが本来は些細な身体的反応と結びついて「とらわれ」の状態をひき起こす。この私の説は「とらわれ」を甘えの心理によって解明したという点でたしかに新しいものであるが、しかし森田の説と必ずしも矛盾するものではなく、むしろそれをさらに深めたものであるといっても過言ではない。なぜなら私の説は森田のいうヒポコンドリー性気分の心理構造を明らかにしたにすぎないということができるからである。
 以上のべてきたごとく、「とらわれ」の心理をとりあげたことに森田の独創性があり、その神経質理論はすぐれて日本的な発想に基づいているということができるのであるが、しかし所詮人間心理は所によってそう変わるものではない。変わってみえることがあるとしても、必ずそれは共通の地盤を持っている。殊に森田が研究した神経質は欧米にも見られるので、欧米の患者が森田の指摘した「とらわれ」の心理を持っていないとしたら、まことにおかしな話である。だた従来は欧米の学者にしてそのことに注意した者がなかっただけであって、それはおそらくこのような心理を気付かせにくくするような心理傾向が欧米人一般に存するからなのであろう。ただ最近になって、森田の仕事とは無関係に、「とらわれ」の心理に相当するものについてのべる学者が一、二出てきたことは興味深いことである。その一人はオランダのG・A・ラディであるが、彼は、ヒポコンドリーの本質は、何かの病変に侵されていると感じ、しかもこの感じに憑かれていることである、とのべている。ここで憑かれたと訳した言葉は英語ではfascinationであるが、これが「とらわれ」と同じものであることは一目瞭然である。またドイツのワルター・シュルテは、神経質患者治療の目標として、これまで文献に前例がないがとことわったうえで、die Unbefangenheit zu lebenとのべている。これは訳せば「とらわれなさを生きる」ということで、いいかえれば神経質患者にとらわれがあるといい当てたものと見ることができる。このように森田の指摘した「とらわれ」の心理は、全く彼と無関係に、最近外国の二人の学者によって認められているのであるが、しかしいずれも未だこの「とらわれ」をさらに甘えの心まで掘り下げることはしていないのである。