うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

大阪と「裏の喪失」


 私用で大阪に行って来ました。
観光なら良かったのですが、近い将来の事で行って来たので、ゆっくりする時間もなく、移動の間だけ楽しませて頂きました。
 何分、親分のお伴なので、ケチケチ旅でした(笑)
二日目の移動時、南森町駅目指して徒歩で移動していたら、中国茶の看板があり、炎天下、大分歩いたので入って見ました。

 坪庭を見させて頂いている間に

 白茶と緑茶の準備が出来ていて、美味しく頂きました。写真は白茶の方です。

 床を見させて頂き、涼を頂いてから目的地まで歩きました。

 久しぶりに、母親(継母)と弟と会い、今までの事、これからの事など話し合い、親分もおっちゃんのちょっと立派だった(笑)過去を夢や空想ではなく現実として受け止めてくれたと思いました。
 扱いは戻って来ても変わりませんが......(笑)

 凄惨なニュースもあり、大阪行きを悩みましたが、現状では簡単には地元を空けられないので、思い切って行かせて頂きました。
 ネットのニュースと新聞を読み漁りながらの旅になり、北山修先生の下の箇所が頭をよぎりましたので、アップさせて頂きます。
 マイケル・ジャクソンのところなんか、事件を予測していたかのようです。

『最後の授業』北山修
「裏の喪失」
 今回は、まず、先週話題になったお笑い番組の機能に関わる理論があるので、これをすこしご紹介することからはじめようと思います。
 これまでお話ししていることは、必ずしもすべて私が考えついて話しているわけではなくて、先行研究があります。学問というのは先行研究のおかげで発展していくものです。
 なぜ私たちは笑うのかということに関して、精神分析は考察してきました。芸術の感動を呼ぶ心理学、感動の心理学です。心理学が感動的なわけじゃなくて、感動をどう心理学に説明するかということ。そもそも我々のフォーク・クルセイダーズが受けたのもこの理屈だろうと思うのですが。
 それは、こういうことです。人間は普段言うに言えないことを抱えている。言うに言えない思いに何とか蓋をしていい子ちゃんをやっている。優等生をやって、みなさんは生きているわけです。これを私たちの用語で「抑圧」と言います。この抑圧しているものの蓋をとって、公共性のあるかたちで抑圧されていたものの中身を語ると、その時に爆笑を呼ぶ。お笑いが受けているのは、抑圧されいるものをみなさんの前に提示するので、抑圧する必要が無くなって、抑圧されていたエネルギーが爆発するんです。これが笑いとなるという理屈。
 それからもうひとつ大きいのは、その抑圧するために使っていたエネルギーも不要になるということ。いいですか。みなさんは私の授業を聞きながら、本当は腹が減っただとか、眠りたいとか、いろいろ欲望があるけど抑圧しているわけです。ほんとうは私も九州大学にもうちょっといたいなと思っていたりするわけです。でも、抑圧している。でも、「ちょっと残りたいなと思っていたりするだよね、とかなんとか言っちゃって」みたいなことを言うと楽になる。
 それから、「やっぱりやめよか」みたいなことを言っていると冗談になって、抑圧していたものが爆発する。あるいは心の外に出る。カタルシス効果を経験する。そして、抑圧のために使っていたエネルギーも不要になる。それが一緒になって、二重に気が楽になるという理論です。
 心というのは「楽になる」と言います。楽になるというのは、私たちは普段、エネルギーを使いたくないのに、一生懸命抑圧のためにエネルギーを無駄に使っているんですね。これを上手く開放してやれば笑いが生まれる。
 この先行研究の詳細はフロイトの「機知について」という論文に著されています。フロイトは、人間は子どもを隠して、大人のふりをして生きている、だから子どもっぽいことを公共性があるかたちで言えば、みんなに笑ってもらえる、という冗談の心理学を描出しました。
 前回、裏の喪失のことを強調しました。人間には表裏があって、いま抑圧している部分があるにもかかわらず、社会から裏がなくなり、裏を出すところがなくなってしまった。駅にも裏がなくなり、駅裏がなんとか口と呼ばれるようになってしまった。暗闇に照明があったり、どちらも表になって、裏がなくなってしまった。世界中でこのことが進行しています。
 駅裏というのは、なんかゴチャゴチャしてて、みんなが言いたいことを言ってカタルシス効果を経験できるような場所だった。あるいは、欲望がちょっと顔を出していた。ほんとうに吐いているやつまでいた。今ちょっと失笑するでしょう、「吐いているやつまでいた」って。で、背中をさすっているやつまでいた、ってちょっと笑うんだよね。それが冗談ですね。
 精神分析の授業は楽しいですよ。やってみるととても有難いのは、普段抑圧していることが口にできるから、学問の名のもとで(笑)。これがカタルシス効果。
 裏というのは、もともと日本語では心の意味がある。「うら恥ずかしい」「うら淋しい」というように、あるいは「うらみ」という時の「うら」、あるいは「うらやましい」。これは、じつは「うらが病んでいる」という意味なんですよね。「うら」というのは日本語ではとても味のある言葉、この裏がなくなりつつある。裏を置いておく場所がなくなってしまった。そして私たちの仕事はその裏を取り扱うのだとお話ししました。

マイケル・ジャクソンの徹底したセルフモニタリング
 ここで、マイケル・ジャクソンの話をします。マイケル・ジャクソンの素顔はどこに行ったのか。
 2009年6月、マイケル・ジャクソンの死という事件がありました。映画「This is it」を見ましたか?あれはリハーサルを記録した映画です。これは、さっきお話ししたセルフモニタリングがもう滅茶苦茶起こっている映画ですね。
 リハーサルというのは、まだ撮らなくてもいいところにもかかわらず、マイケル・ジャクソンはすでにカメラを置いていて自分を撮って、すべて把握しようとしている。マイケル・ジャクソンはそのモニターの中の自分の姿を見ている。モニターを見ているところが映画に出てきます。あれだけ自分の表をモニターできるとなると、自分が自分の表を操作することになってしまって、自分は自分の操り人形ととなってしまうでしょう。
 私はマイケル・ジャクソンと同じような傾向が現代人には進んでいるのではないかと思っています。自分が自分を操作でき、そして自分の姿を見られるので、自分を修正することが可能になった。おかげで、私たちは自分を自分の操り人形にしてしまっている。そうすると、素顔はどこへ行ってしまうのか。マイケル・ジャクソンのあの黒い顔はどこへ行ってしまうのか。
 彼の苦悩の根源は、黒人であったお父さんに似ているところにあったのではないかと言われています。素顔とつくりあげられた白い顔との間の葛藤が、彼の中にあったのは当然でしょう。それを忘れるために薬物がだんだん必要になっていった経緯が空想できるのです。というのは、そういった現代人、そして患者さんが多いから。
 私たちは、私たち自身でつくりあげていく自分の仮面と、自分の本来の醜い姿、あまりさらけ出したくない姿との間で葛藤する、あるいはそれが進行して引き裂かれている。そういう時代に入った。これから私たちセラピストはこの引き裂かれを取り扱う時代に入ったのではないかと思う。