うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

『林先生に伝えたいこと』灰谷健次郎


 キナリの110枚は完成したので、

 ネイビーの110枚に入りました!


先日の事件があってから、今まで読ませて頂いた本の箇所が沢山、記憶の辺縁から中心へ向かって来ています。
 その中から一つだけアップさせて頂きます。

 仕事とは、ニーズに応える事だと思って(教育されて)今まで来ましたが、そうでもない方の方が多いですね......。
 自分の存在が欲しいだけの方があまりにも多くて、疲れてしまっています(笑)まあ、自分もたいがいな人間ですが(笑)

 個人的には灰谷先生の文章も、自分が出過ぎて(あくまで個人的な意見です(笑))好きではないのですが、この箇所は、精神分析的な感じがして、福祉職として大変、心に沁みます。

 少し長いので、ご興味のあるかたはお読みください。


『林先生に伝えたいこと』灰谷健次郎
チューインガム一つ   三年 村井 安子
せんせい おこらんとって
せんせい おこらんとってね
わたし ものすごいわるいことした



わたし おみせやさんの
チューインガムとってん
一年生の子とふたりで
チューインガムとってん
すぐ みつかってしもた
きっと かみさんが
おばさんにしらせたんや
わたし ものいわれへん
からだが おもちゃみたいに
カタカタふるえるねん



わたしが一年生の子に
「とり」いうてん
一年生の子が
「あんたもとり」いうたけど
わたしはみつかったらいややから
いややいうた



一年生の子がとった



でもわたしがわるい
その子の百ばいも千ばいもわるい
わるい
わるい
わるい
わたしがわるい
かあちゃん
みつからへんとおもとったのに
やっぱり すぐ みつかった



あんなこわいおかあちゃんのかお
見たことない
あんなかなしそうなおかあちゃんのかお見たことない
しぬくらいたたかれて
「こんな子 うちの子とちがう 出ていき」
かあちゃんはなきながら
そないいうねん



わたし ひとりで出ていってん
いつでもいくこうえんにいったら
よその国へいったみたいな気がしたよ せんせい
どこかへ いってしまお とおもた
でも なんぼあるいても
どこへもいくところあらへん
なんぼ かんがえても
あしばっかりふるえて
なんにも かんがえられへん



おそうに うちへかえって
さかなみたいにおかあちゃんにあやまってん
けど おかあちゃん
わたしのかおを見て ないてばかりいる
わたしは どうして
あんなわるいことしてんやろ



もう二日もたっているのに
かあちゃん
まだ さみしそうにないている
せんせい どないしよう

 

 じつは、この詩と、この詩が成立する過程には、深い意味がある。
それは『わたしの出会った子どもたち』の中に、いくらか書かれている。
が、書かれている以上に、もっと奥深い人間の魂に触れるところのものがあるのだが、彼女は確実に、それを洞察している。
 そして、それを、我がこととしてとらえ、自ら変わろうとした。
 わたしはかつて、林竹二先生と、チューインガム一つという作品について、つぎのように語り合ったことがある(『対談 教えることと学ぶこと』より)

灰谷 この作品が生まれてくる過程を簡単に説明しますと、「チューインガムを盗んだ。もうしないから、先生、ごめんしてください」という意味の簡単な紙切れを持って、母親に首筋をつかまれて引きずられてきたわけです。
 ぼくはその紙切れを見て、「安子ちゃん、ほんとうのことを書こうな」と一言いっただけなんですが、彼女はその一言でまた泣き出してしまったのです。
 お母さんに帰ってもらって、安子ちゃんとふたりっきりになったのです。
 盗みという行為と向き合うことは本当に苦しいわけで、彼女は許しを請うことによってそこから解放されようとしている。それはわかるわけです。
 しかし、許しを請う世界からは魂の自立はないという思いが僕にはある。
 盗みをしたということがほんとうのことを言っていることではないという思いがやっぱりぼくにある。
 盗みという行為によっていったん失われた人間性を回復するためには、もう一回盗みというものと向き合うしかないと思うわけです。
 強制をしているみたいなことになるわけですけれども、しかし、ぼくもかつて幼いときに盗みをしたという体験があるから、安子ちゃんのためにそうしているという意識ではないのですね。こういう気持ちはわかってもらえるかどうかよくわかりませんが…….。
 それでかきはじめたのですけれども、一字書いては泣くし、一行書いては泣くし、泣いている時間の方がはるかに多かった。
 ここで普通だったら言葉のやりとりがあると思うでしょうけれど、このとき、安子ちゃんとぼくとの間で、言葉のやりとりが全くなかったのです。
 これは非常に容赦のない世界です。
 安子ちゃんも辛いだろうけども、ぼくもものすごく辛い。
 これはやめるほうがずっと楽です。なぜこんなむごいことをしているのかという思いが片っ方ではあるのですけれども、いまここで、この時間を中途半端に終わらせてしまえば、安子ちゃんの人間性の回復する道は永久に絶たれてしまう。
 いまここで苦しむことが、彼女が強く生きるということにつながっていくんだと思うとどうしてもやめるわけにはいかない。
 ぼくは、すべての感覚を安子ちゃんに集中している。それが共に涙を流すということにもなるわけですけれども、安子ちゃんはそれをしっかり受けとめてくれたわけです。
 あの作品が生まれるまでに彼女はどれくらいひどい血だらけの格闘をしたか。それはまた同時にぼくが血だらけになるということでのあるわけです。
 ぼくが先ほど献身の関係と言ったのはこういう関係を指して言っているのです。その辛さをお互いに耐え抜くことが、教師と子どものたった一つのどうしても抜きがたい関係だというふうに考えているわけです。

 安子ちゃんに己の盗みという行為から目をそむけさせないで凝視させる、その辛い仕事をさせることを抜きにしては、この場合、教師の献身はないのですね。
 私がよく言っているのですけども、やさしさときびしさというのは一つだと思うのです。少なくとも教育のなかでのやさしさときびしさは一つでなければだめだというのは、いまの「チューインガム一つ」が生まれてくる過程のなかに、非常にはっきりと示されています。私にはソクラテスから学んだ、教育は反芻と浄化だという考えがあるのですが、あの詩が生まれるプロセスのなかには、そのことの証があるように思うのです。
 灰谷さんの、ちょっとのごまかしも許さない、きびしく追い詰める行為で、安子ちゃんは自分ひとりではぜったいに到達できない高い峰をよじ登っていった。灰谷さんのあのきびしさーそれがそのままやさしさのわけですが、それなしにはあの詩は生まれなかった。
 あれはまぎれもなく、安子ちゃんの「作品」ですけれど、自然には決して生まれることはなかったものです。
 「チューインガム一つ」が生まれてくる過程は、授業について、いろんなことを教えてくれます。

灰谷 これはぼくにとって一つの事件なんですけれども、この事件は同時に子どもの可能性という問題も含んでいるわけですね。

 そうですね。子どもの可能性というのは、普通の授業ですと、パッパッパット応答して、たくさんの子どもからいろんなものが次から次へ出てくる。それがとってもいい授業だということになっている。
 これはぼくは、子どものごく浅いところにあるものをやたらに持ち出さして授業を構成しているので、そのなかにほんとうの学習はないと思うのです。
 子ども自身のなかにしまい込まれているもの、貴重なもの、かけがえのないものはすぐ目につくところにはない。それが何だということを探る作業がどうしても要るわけです。鉱山でいえば、地底を深く掘り下げていってそこに秘められているものを探るわけです。
 ちょうどそういう仕事をあの「チューインガム一つ」が生まれる過程で灰谷さんは見事になし遂げている。
 どんなものを書かせようというような意図もないからできたんだろうと思うんですけれども、しかし、安子ちゃんをそのままおいたらどうなるかということで、安子ちゃん自身を自分の行為とほんとうに真っ向から向き合わすことをやらせた。
 こういうことは、教師自身も問題と向き合うとともに、否応なく自己自身と向き合うことになり、自分も傷つくことなしにはできることではない。

灰谷
 そうです。ぼくがあのときにしみじみと感じたのは、こういう世界ではどこにも教師面をするところがないことですね。
 まさしく対の関係でしかないと思いましたが、これは安子ちゃんの人生とぼくの人生が激しくぶつかり合っているということですね。
 それしかない。あの作品を読んで、こんな作品を三年生の子が書いたというのはどうしても信じられぬ、ひどい人はぼくが手を入れたんではないかと言うんですけれども、それは子どもの可能性が何であるか知らない人が言うことですよね。
 子どもというものは長いこと接している教師ですら信じられないような力を出すことがある。
 子どもと教師が本気で向き合ったときには、そういう世界が展開するんです。
 あのこの場合、すぐれた作文をたくさん書くとか、すぐれた詩をかくという子でもなんでもなくて、編み物を一人でしているのがすきだという、友達も少ないどっちかというと陰気な子だったんです。
 だから、普通にいうと、ああいうすぐれた詩を書く可能性はない子だったんでしょうけど……。

林 可能性というものはそういうものなんでしょう。
 可能性と言うのはまだ決まった形のないもの、規定される以前の無形のものなんです。ここにこういうものがあるなということがわかったら、可能性じゃないわけです。
 要するに、それがある形をとったときに初めて、あっ、こういうものがあった、ということがわかる。ものすごいい深いところに、目のつかないようなところにあるものなんで、これが引き出されたとき、あっ、こんなものがあったんだ、ということになる。それを引き出す努力みたいなものを離れては、可能性はないわけです。〜



 
 帰巣本能か?大阪に着くと、ウィニコット的に『抱えられる』という感覚になり、どうせ残りの人生思い切って生きるなら、大阪で!という思いもあるのは事実です。
 もう少し作品を作って、大阪で勝負を掛けたいなと思って居ます。
東京とも思いますが、母親(継母)が生きているうちに、もう一度、ちょっとだけ立派だった(笑)自分を見せて、腹を痛めた子でないのに、きちんと育てていただいた恩返しをさせて頂きたいなと、先日、大阪に帰った時に思いました。

 母親に一番叱られたのは、音楽を諦めた時でした。
貧困家庭でしたが、中学生の時にクラッシックギターを習いたいと無理を言って習わせてもらい、それが自分の基礎になっています。
 音楽もアートも何でも基礎がしっかりできていないと、応用ができませんので、成長が望めません。
 あるジャンルしか弾けないなんて、基礎ができていない人の言いわけでしかありません。
 福祉の現場での支援も、佐々木正美先生が仰るように、心理学が基礎になければ、同じことを繰り返すだけで、進歩もあり得ないのです。
 しんどいことは、誰でも嫌ですが、その本当にしんどいことを乗り越えた人間だけ、本当の仕事ができます。
 高校生の時に読んだ、永六輔さんの『職人』という本で、大工さんが「下手な奴と一緒に仕事したら、自分も下手になるからいやだ」というような言葉がありました。
 施設に一人でもそれを乗り越えた人間がいると、難しい方でも支援が可能になるように思われます。

 喘息の治療で通っている町医者の看護婦さんから、誰から聞いたのか?(そんなことはありませんが(笑))あなたはここにいるのはもったいないと、誰かから聞いたと大分前に言われましたが、小さな町できちんと出来ない人間は、大きな街でもきちんと出来ないし、その逆も真なりですね!
 自分のふがいなさを、他人のせいや、環境のせいにはしたくないので、日々努力するのみです。

 大阪行きで、母親や弟からの話で、過去の事を思い出し、もう一度昔みたいに頑張りたいなとも思いました。




 休憩に利用させて頂いた喫茶店です。
昭和の匂いがプンプンしていましたし、コーヒーが250円から300円の世界でした!

 自分が大阪にいた時には第3ビルなんてテナントが全然入っていなくて閑散としていましたが、今は歴史的な感じがして、それなりに賑やかでした。