うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

七夕飾りが不評でしたと、孔子の教えとアグレッション

七夕飾りが不評だったので、帰宅後直そうと思ったら、プラタナスの葉っぱが萎れていました(笑)まあ、それはそれで花器の文様のようになって良いかもです(笑)少し賑やかにしましたが。

 結局、昨日試した一番最初の物が、シャキッとしていて良かったですね(笑)お茶碗が違うだけですが.....。
 変に考え過ぎると、煮詰まってしまうだけですね!

 今日は事務仕事を一気に片付け、夕方、学齢児さんの入浴と送迎で渥美に行って帰って来ました。
 バスを待つ間、ウィニコットを読ませて頂いていましたが、『現代精神医学批判』からアップさせて頂きました。大分端折っていますので、ご興味のある方は、図書館で借りて下さいね(笑)
 今までの復習も出来るし、勉強になる本でした。

 アートや楽器は死ぬまで練習ですね......。業が深いのか(笑)まだまだ納得できません。
 明日は休日で梅雨の晴れ間とのことなので、自宅(借家ですが)の、自分の作業部屋を作りかえる(移動するだけですが(笑))予定なので、忙しさに感けて、さぼっていた創作活動をそろそろ再開しようと思っています。
 間が空いてしまったので、作風が変わりそうですね(笑)頭の中には構想があるので、それを具現化して行きたいと思っています。
 音楽の方は、ギターソロ用に、ガンガンアレンジしているので、レパートリーをもっと増やせていけたらと思っています。
 どちらにしても、7月中旬から9月までの間でないと、時間が取れないので、頑張って片付けます!明日は、暑そうですね.......。


第2章 衝動的な物
孔子の教えとアグレッション
 身体技法の習熟や立ち居振る舞いについて語っているうちに、中国の古代の思想家が「礼」という徳目を重視したことが、思い出されます。同時に音楽の演奏を君子の行うべき道徳的な行為に挙げていることも、ここを書いていて納得できたような気がします。
 いくら独楽回しが大事だといっても、いい大人がそればかりやっているわけにはいかない。楽器の演奏という身体技法に習熟する過程では、自らをコントロールすべく何回も繰り返しが必要でしょうから、未熟なアグレッションしか持ち合わせていない人には到底耐えられないでしょう。それに耐えて名人の域に達することによって、その人は自由を得る。だから音楽が徳目に入っているのだろうと了解しました。
 アグレッションを統御して、一つの技芸にまで高めることは、無目的で混沌とした原始的エネルギーのままでは、叶わないことです。
 この有用で使用可能な形態に移行する過程、それはさまざまに変遷する道筋でもありますが、これを自我心理学の巨頭であるハインツ・ハルトマンは、「中性化(neutralization)」
または「昇華(sublimation)」と呼びました。
 「若い者の性欲を昇華させるために厳しく鍛えるのだ」とグラウンド一周を何回もというのは、「昇華」概念の盗用ないし誤用です。中国の聖人たちはそんな野蛮なことを言わずに「礼」といい「楽」(がく)と語りました。
 中性化とはアグレッションが使えるエネルギーに変換されることです。それ自体に道徳規範的な含意はありません。そもそもが、三センチの段差を降りられて大喜びして手を叩いている子どもから始まったことで、倫理道徳なんてなんの関係もない。
 ここで述べている衝動的なものの変遷過程について、フロイドによる有名な定言「エスであったところを自我に」(Wo Es war,Soll Ich warden)で言い換えることも可能でしょう。
 「精神分析入門(続)」第三十一講の日本語訳では、「言うまでもなく精神分析療法の意図は、自我を強め、自我を超自我からさらに独立させ、自我の知覚領域を拡大し、自我の組織を完成し、その結果自我がエスの新しい諸部分を獲得できるようにするということにあるのです。かつてエスであったところを自我にしなければならないのです。(改行)それは、たとえばオランダのゾイデル海干拓のような文化事業なのです」となっています。
 この部分は英語ではWhere id was,there ego should beと訳され、日本では「イドの在りし所に自我をあらしめよ」としえ、教えられていました。筆者がしばしば引用するハインツ・ハルトマンの自我心理学もこの立場だと思います。上述してきた衝動的なものの変遷とその洗練という発達的見方もほぼ同じ視点を持っています。〜
〜衝動的なものにどう対処するかの問題です。ここでも触れたようにこの過程は本来楽しい体験です。
からだを意のままに扱えるようになることの、それこそ第一歩になる喜悦の瞬間です。
のちのち病気を招きかねないアグレッションへの対処とは、これを嫌悪の対象として禁圧したり、そんなものはないことにしたり、それを自分に所属しているものではないと分離してしまったりすることなのです。それぞれに術語があって、抑圧・否認・分離(アイソレーション)といいます。
 このうち、否認と分離が抑圧よりも悪性度が高いとされています。抑圧するには力が必要で、抑止に使われることが可能な程度まで、アグレッションが成熟している必要があるからだといわれています。
 自らに抑圧的な人は、せいぜい生真面目で堅苦しい人物となり、時々急に怒り出したりする程度で、付き合いたいような人物ではなくても病気とはいえない。官僚や軍人に多い一つのタイプとでも言いましょうか。自分に抑圧的だから他人も抑圧する。
 否認は、あってもないことにする。本書のあちこちで触れた「あってはならない」思考の得意な人は「想定外」を乱発します