うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

ある日の休日と、ギターのメンテナンスと、またまた(笑)第13章 逆転移のなかの憎しみより


 先日、まりちゃん以外は、初めて池ノ原のお茶室に(立礼ですが)行ってみました。


 皆さんやはり日本人なので、お茶の心がわかるのか?誰と来ても今の所静かに一服頂けます。
 おっちゃんの懐具合と時間があれば、また違う方と来たいと思っています。
 環境の大切さを感じました。


 おんぼろ・ポンコツギターばかりなので(20〜30年物)最近ピッチが狂ってしまい、メンテナンスに出すことにしました。
 近くで探し、電話をかけて安心して出せる所を見つけたので、総会が終わって落ち着いたら持って行こうと思っています。浜松ですが。
 最近、伴奏にしか使わないので(チョーキングなどしない)真直ぐにフレットが削れてしまっています(笑)1〜13フレットくらいまで同じようにへこんで?しまっているので、平均的には使っているのでしょうが(ポジションを)どうやらフレットだけの問題ではなさそうです。
以下、やり取りした方の見解です。
『フレットの減りの少ない4〜6弦でも同じように半音程度あがるというのは気になりますね
意外に単純な事で解決するかもしれませんし、その逆かもしれません。これまで修理を15年ほどやってきた中では見たことがない症状ですが、挑戦したいという気持ちがふつふつと湧いてきました。』

 ちょっと恐いですが、持って行くしかないですね(笑)
きちんと直ったら、リペアの方紹介させて頂きます。

 弦を楽器屋さんに言われて太いゲージにしてから、不調になったので
ナットが原因か?と思い、元のゲージに戻しましたが、改善されず.....。弦の巻き方は、勿論、ギブソン巻です(笑)
 オクターブも問題ないし.....。自分の能力では限界です(笑)



 ウィニコットは、端折り過ぎて理解が難しいかと思い、ケースが出ていたのでアップしてみました。

第13章 逆転移のなかの憎しみ
 〜第2次世界大戦中、ある9歳の少年が疎開児童のための収容施設にやってきたが、この少年は爆弾から守られるためではなく、ずる休みという理由で、ロンドンから送られてきたのである。少年が収容施設にいる間、私は少し治療をしたいと思ったが、彼の症状の方が勝って、初めて家庭から逃げ出した6歳のときからいたるところで繰り返してきたように、少年は逃げ出してしまった。しかし、私は1回の面接で少年との接触を確立していた。その時、少年が逃げ出すことで無意識的には家庭の内側insideを守り、攻撃から母親を保護し、同様に、強迫者でいっぱいになっている彼自身の内なる世界から逃げ出そうとしているということも、私は少年の絵を通して理解し、解釈することができた。
 私の家にとても近い警察署に少年が姿を現した時、私はそれほど驚かなかった。そこは、少年のことを詳しく知らない数少ない警察の1つだった。私の妻は非常に寛大に少年を受け入れ、3か月間預かったが、それは地獄の3か月間だった。少年は最高に愛敬があって、最高に腹の立つ子どもで、しばしばあからさまに人をにらみつけて狂ったように怒った。しかし、幸いなことに、私たちは予期すべきものに気がついていた。私たちは、少年が出て行く時にはいつでも、完全な自由と1シリングを与えることで、最初の段階を取り扱った。彼はただ電話をかけなければならなかったが、彼が電話をかけさえすれば、それがどこであろうと、少年を預かっている警察署から私たちが彼を連れ戻した。
 まもなく、予想された変化が起こり、ずる休みという症状が変わって、少年はその内側への攻撃を劇化dramatizingし始めた。それは、本当に私たち両方にとってすべての時間を取られる仕事だったが、私が留守をしていた時に最悪の事件は起きたものだった。
 昼夜を問わず、どんな瞬間にも解釈をしなければならなかった。そして、しばしば危機的な状況での唯一の解決は、正しい解釈を行うことであったが、その時、少年はまるで精神分析を受けているかのようであった。何にもまして少年が評価していたのは、正しい解釈だった。
 この論文の目的にとって重要なことは、少年の人格の展開が私の中に憎しみを引き起こしたその方法であり、私がそれに対して何をしたかということである。
 私は少年を殴ったか?答えはノーである。私は決して少年を殴らなかった。しかし、もし私が憎しみについて全く何も知らないであたり、その憎しみを少年に知らせようともしなかったら、私は少年を殴らなければならなかっただろう。危機に際して、私は怒りや非難ではなく、体の強さで少年を捕まえ、どんな天気であろうと、昼であろうと夜であろうと、玄関の外に追い出した。玄関の外には、少年が鳴らすことのできる特別の呼び鈴があって、それを鳴らせば再び入ることを許され、過ぎたことについては何も言われないことを少年は知っていた。少年は狂ったような発作から回復すると、すぐにその呼び鈴を利用した。
 重要なことは、少年を玄関から出すたびに、そのつど私が彼に話をすることだったが、私は、こういうことが起きると、それが私に少年を憎ませることになるのだと話した。これは本当にそうだったので、簡単なことだった。
 これらの言葉は、少年の進歩という観点から見て重要だったと思う。しかしそれらは主として、手綱を緩めることもなく、堪忍袋の緒を切ることもなく、そして、時には少年を殺してしまうこともなく、私がその状況を容認するために重要だったのである。
 この少年のすべてを、ここで語ることはできない。少年は感化院Approved Schoolに入った。彼の深く根づいた私たちとの関係は、少年の生活における数少ない安定した事柄の1つとして残っている。普段の生活から引用されたこのエピソードは、現在において正当化される憎しみという一般的な話題を説明するのに利用することができる。つまりこれは、別の状況でしか正当化されないような憎しみとは区別される必要があるが、しかしそれは患者のなんらかの行動によって引き出されたものなのである。
 憎しみとその起源という問題のすべての複雑さから、私は1つの点を救い出したい。なぜなら私は、精神病者の分析家にとってはそれが大切であると信じているからである。赤ん坊が母親を憎む前に、または、母親が自分を憎んでいるということを赤ん坊が知ることになる前に、母親が赤ん坊を憎むのだ、ということを私は示唆したい。