うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

イエローレシートと、イチゴの差し入れと、お土産と、第5章 母親の抑うつに対して組織された防衛という観点から見た償い




 今日は11日!イエローレシートの日だったので、皆さんに協力を仰ぎ、女性職員が行ってくれました。
 沢山頂いたと、連絡があったみたいで、写真を送ってくれました。
皆さんありがとうございます!



 先日、皆さん夕食が終わり、お風呂も終わって、一息入れていた時間に、よっちゃんのお母さんが、立派なイチゴを沢山持って来てくれました!朝食用にみんなで分けていたら、皆さんお皿ではなく、お口に入っていってしまってました(笑)すろーじゃむのイチゴは残るのに(笑)本職の方が作ったのは.....。ていうか、晴君ってイチゴ嫌いじゃなかったっけ?
なんで食べてるのかな?(笑)


 旅行に行っていた、家主さんがお土産を持って来てくれました!

 ナツメヤシの実のドライフルーツや、懐かしいヌガーみたいなお菓子が有ったり、その飛行機に乗らないともらえないディープな物があったり、ワクワクさせて頂きました。ヌガーは美味しかったです!
 ナツメヤシの実のドライフルーツはデーツですね!
オタフクソースさんのサイトに詳しく出ていましたので、最初の部分を引用させて頂きました。

デーツは中近東の「なつめやし」の実です。中近東諸国では、代表的な果実として、多くの人々に日常的に食べられています。 現在では、中近東諸国の中でも、イラン、エジプト、サウジアラビアオマーンパキスタン北アフリカなどで生産され、世界中へ輸出されています。デーツは、イスラム教の聖典コーランに「神の与えた食物」、旧約聖書には「エデンの園の果実」と記載されており、ハムラビ法典に記載されている果実もデーツであると言われています。紀元前数千年も前から灼熱の地域で暮らす人々の健康を支えてきました。 



話しのねたになるお土産でした!



 相変わらず、地道に(笑)本を読ませて頂いていますが、ウィニッコットの深さに、打ちのめされたり、元気づけられたり(笑)
 自分の勉強不足がまたもや露呈されました....。


第5章 母親の抑うつに対して組織された防衛という観点から見た償い
〜子どもは自分自身の抑うつからの逃避として、母親の抑うつを利用する。これは母親に関して、偽りの修復restitutionと償いを提供する。そして、この修復は子ども本来の罪の感覚に関係していないからこそ、子どもの個人的な修復の能力の発達が妨げられる。一連の有望な学生のなかでも、必ず何割かは頂点に達することができないのは、個人的な抑うつに関してというよりも、母親のうつに関して償いがなされるという事実からである。特別の才能があり、そして、最初は成功しているように見える時ですら、母親への子どもの依存に伴う不安定さは残るのである。同性愛的な装飾が発展するかもしれないし、あるいはしないかもしれない。バレエの本のどこかで、アーノルド・ハスケルは言っている。「どんなバレエダンサーも母親がいることを心に留めなければならない。」私が記述しているこれらの子どもたちにも、確かに彼らの母親と父親がいる。それは無論、必ずしも常に母親であるとは限らない。成功をおさめるはずの仕事の能力があるような、多くの青春期の少年少女たちは、仕事上の成功が両親の一方、あるいは両方のニードによって盗みとられる時、思いがけなく押しつぶされてしまうのである。個人の同一性を確立しようとしている青年には、それで唯一の解決が失敗を通過するのである。そしてこれは特に、父親の志を継ぐように期待されている少年、あるいは父親の握る支配力に未だに挑戦できそうもない少年の場合に適用されることになる。
 極端な場合では、これらの子どもたちは、決して果たすことのできない課題を抱えているように見えるだろう。彼らの課題は、まず何よりも母親の気分moodを扱うことなのである。もし彼らがこの直接の課題に成功したとしても、彼ら本来の人生を歩み出しうるという雰囲気を作り出したことに、成功したにすぎない。この事態が、個人の発達に必須のものであるところの個人的な責任の受容からの逃避として、その個人によって濫用されうるということは、容易に理解されるだろう。分析を通して個人的な罪を掘り下げる機会を、子どもがどこかで得るならば、母親(あるいは父親)の気分がまたそこで扱われるはずである。転移の中にこの徴候が現れると、分析者はこのことを認識しなければならないし、さもなければ分析が成功するからこそ、それが失敗せねばならないということになる。私は、かなり当たり前の現象を記載しているのである。
 通常の観察では、子どもの母親(あるいは父親)が支配的な性格をもっているということである。分析者として思うには、子どもは親の性格の環の中で生きていて、そしてその環が病的な特色を持っている、ということである。すでに記述した快活な少女の典型例では、母親の内なる世界での生気のなさや暗さに関して救われたいという母親自身のニードは、子どもの元気さや顔色の中に、その答えを見出すのである。
 相当数の症例では、この条件は極端ではない。そのため、母親が子どもの成功を盗み取り、それゆえに、底に横たわる罪まで盗んでしまうという絶え間のない脅しがあっても、子どもの償いという活動は個人的なものでありうるのである。そのような場合は、精神療法の初期の段階で、積極的に親に取って代わることによって、著しい臨床結果を得ることも難しくない。好ましい場合では、両親に対して子どもの側に立つことは可能であり、それと同時に両親の信頼を得て、これを保つことも可能である。