うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

ガーベラの花と、個と集団の折り合い/統合失調症と近代


 親分が先日、ひーひー王子との散歩中、近所のガーベラを作っているハウスの前に多量に捨てていた、出荷できないガーベラをもらってきたので、大分前に飲んだバドワイザーの瓶に入れました。
 何となく絵にならないので、

 送料を入れないと、200円の俑で遊んでみました(笑)
良い香りがしましたでしょうか?
元値は高かったんですが......。しつこいですね(笑)

 今日は自分の受診日で、待っている間、ウィニコットを読んでいましたが、受診が終って、岡崎に用事で行った時に親分と話をしていて、先日読ませて頂いた、木村敏先生の本の箇所を思い出したので、アップさせて頂きました。ウィニコットは躁的防衛が終わり、第2部に入りました。

臨床哲学の知』 木村敏
第2章 生命と生命論について
個と集団の折り合い/統合失調症と近代〜専門の精神病理学の観点からいいますと、わたしはこの個と集団の折り合いというか緊張関係こそが、統合失調症という病気を生んできたのではないかと考えています。前にもお話ししたように、この病気が個別化以前の大文字の〈自己〉と、個別的な小文字の自己との「あいだ」との統合不全から来ているものだとすると、当然そうなりますね。
 統合失調症は、そもそもが近代以降の病気で、十八世紀以前には存在しなかったのではないか、と推測している人もいます。そういわれてみると、あれだけ精密な症例記述を残している古代ギリシア医学にも、いまだったら統合失調症という診断がつくだろうというような診断は記載されていません。シェイクスピアの作品を見ると、変な人がずいぶん出てきますが、やはり統合失調症らしい人物はでてきません。それが出てくるのは十八世紀も終わりごろで、その最初のはっきりした症例は、有名な詩人のヘルダーリンです。ヘルダーリン統合失調症に罹患していたことは、まず間違いありません。
 近代以前は、集団の力がいまよりも圧倒的に強かっただろうと思われます。個というものは集団の中に埋没していましたから、個と集団のあいだの緊張関係もそれほど目立たなかった。大文字の〈自己〉が小文字の自己よりも圧倒的に優位に立っていた。それで統合失調症という病気も存在しなかった。人類の歴史の中で個の力が次第に強くなって、二つの「自己」が徐々に拮抗してきたところで、統合失調症が出現してきたのではないか、これがわたし自身の解釈です。
 もちろん、地球上の各地に栄えた古代文明には、それぞれ傑出した人物がいたでしょう。ソクラテスプラトンアリストテレスといった大哲学者たち、ユダヤ教キリスト教イスラム教、それに仏教といった大宗教の開祖たち、そういった人たちはみな、明確な個人的自己意識をもっていて、集団から自立していたと思います。問題は一般大衆なのです。社会を構成している一般大衆の一人ひとりが、それぞれに個人的自己意識を身につけて、集団所属性とのあいだに緊張関係を形成するようになったのは、いつごろからなのか。それは西洋では十七、八世紀の啓蒙思想のころからではないだろうか、わたしはなんとなくそう思っています。
 わたしは、啓蒙思想が個の自己意識を生んだ、あるいは助長したのだとは考えていません。ひょっとすると、西洋、東洋を問わず、人類一般の進化論的な変化のひとつの方向として、個の自己意識がだんだん強くなるという傾向があるのではないか、と考えています。いわゆる啓蒙思想はもちろん西洋のものですが、それとほぼ同じ時期に、それ以外の地域にも同じような傾向は見られたのだろうと思います。進化論の話ですから、何百年というずれは誤差の範囲です。そしてそれが西洋では、十七、八世紀ごろにいわゆる啓蒙思想に結実したのだと考えることができます。
 いずれにしても統合失調症という病気は、二百年あまり前から歴史上に姿を見せました。それ以来、少なくても西洋では急速に蔓延して、百年あまり前の十九世紀末ごろには、精神病で入院している患者の七、八割はこの病気だといってもいいほど増加したのです。そのありさまは、当時のドイツの代表的な精神科医だったエーミール・クレペリンの精神医学教科書を見ればよくわかります。
 この病気はクレペリン時代には、青年期の若い人たちの精神的能力を急速に低下させるという意味で「早発性痴呆」dementia praecoxと呼ばれていました。「統合失調症」Schizophrenieという病名がオイゲン・ブロイラーというスイスの精神医学者によって提唱されたのは、二十世紀初頭の一九一一年のことです。
 それが最近になって、統合失調症が少なくなった、少なくとも病勢が弱くなったといわれています。わたしが精神科医になったのは一九六五年ですが、そのころにはもう、この病気の「軽症化」ということがいわれはじめていましたし、一九九四年にわたしが定年で大学を辞めたころには、初診時にこの病気の診断が確定できる症例は、かなり減ってきていたように思います。
 もし統合失調症という病気が、二十世紀の後半以降、間違いなく減少してきているのだとすれば、これはそのころから、集団の力が個人の自己意識に対して相対的に弱くなってきたからではないのか、わたしにはどうもそう思われてなりません。これはいろいろな社会的風潮からも推測できます。いまの若い人たちは、電車に乗っても、学校にいても、家庭のなかでも、周りの人のことはあまりかんがえなくなっているでしょう。個人の人権意識の方が、共同体全体への帰属意識より、はるかに強くなってきています。個と集団の力関係のバランスが、統合失調症が出現する前の時代とは逆の方向に傾いている。このことと、この病気が減ってきていることとのあいだには、何か本質的な関係があるのではないか、わたしにはどうもそう思われてなりません。もちろん、これはわたし個人の無責任な推測にすぎませんけれども。





 今日は、前回主治医との約束で、自分の作品の写真を見せてほしいとのことで、星野眞吾賞の、自分が入選させて頂いた本が一冊余っていたので、持って行き、もらって頂きました。要らなかったかも知れませんが、半強制的に置いてきました(笑)
 もし創作活動を再開して個展を開いたときには、一枚買ってくれるとの約束をしてくれましたが、先生からお金を頂くわけにはいかないので、先生が好みそうな物(あるかな?(笑))を選んでお持ちさせて頂こうかと思っています。