今日はレスパイトで日中があり、久し振りに泉福寺さんに行きました。お寺の横に(前に?)お社があり、利用者さんと一緒に前まで行き、拝んで来ました。
石に願い事を書いて、願を掛けた沢山の石があったので、自分も3個(も!)書かせて頂きました。
その後、三社詣り宜しく地元の八幡社と神明社さんにお参りに行きました。
明日は日中一時があるので、また沢山歩けます。
今日は通勤も含めると、約10km歩きました。
痩せるかな(笑)
写真が上手く回転出来ませんでしたが、女性職員たちが、お昼はたこ焼き!
夜はたい焼き!を一緒に作ってくれ自宅に帰れない方々も、楽しまれた様でした!
竹内敏晴の仕事・からだとことば(平成国際大学論集 第15号 岡野浩史より)
〜竹内敏晴は人間における意識・無意識の問題に関する野口三千三の考え方をその口吻をまねてこう説明する。人間は体液が袋に入った存在であり、「意識が果たす役割はほんの少しにすぎない。人間は意識的に心臓を動かしたり止めたりできるか?肉体をコントロールする動きは、ほとんど意識とは関係なしに機能しているではないか。人間が生きることの主導権は無意識の中にある。生物の発生に遡って考えてみると、まず、なんとも名づけられぬものが、何かを凝集して境界を作る。これが細胞膜、さらに、細胞の中の体液が、生きるのに便利な器官を作りだしてくる。これが生物の進化であろう。そうすると生物にとっては、根源的に体液が主体であって、脳は体液の作りだした道具と考えるべきではないか。」(『ことばが劈かれるとき 』)からだを支配しているのは意識ではなく無意識ほうであるという考え方はフロイトをひくまでもなく決して新しいものではなかったが、野口の肉体を通しての主張に竹内敏晴は深いところで衝撃を受ける。〜
〜以後、高度の集中による訓練をして竹内敏晴は自分の声を後頭部に、前頭部に、胸に、腹に、意のままに共鳴させていくことができるようになる。そして自在に人を声でつかまえられるようになる。このとき竹内敏晴はことばを自由に操っている自分に気がつく。声が変わることはことばが変わることなのだ。そしていつのまにか竹内敏晴は、声が出ない人のからだの状態を見て緊張している場所を探し出し、野口体操によってその緊張をほぐし、声を開放できることができるようになっていた。人は彼を「声の産婆」と呼んだ。〜
〜ことばはからだから切り離されたモノではない。両者は本来一体のものなのだ。しかし、他者に対して単なるモノとして接してばかりいるうちに、私たちの本来のからだと一帯になったときのことばの力は失われてしまったのだ。他者のからだを忘れているから自分のからだも忘れている。ことばを発するときにも聞くときにもからだ抜きになっている。その結果、私たちのことばはからだから切り離され、やせ細った、人にふれる力を持たないものと成り果てている。そして私たち自身はそのことにまったく気づかずにことばを使って「コミュニケーション」をしている気でいるのだ。 竹内敏晴は『話しかけ』のレッスンをいろいろな人に行ってきたが、子どもたちでやった場合、これをみごとにこなすのは障害を持った子や、いわゆる勉強のできない子たちで、優等生的な子どもたちに得てしてだめだと言う。興味深い指摘である。ことばとからだを切り離して生きていくことができる子どもたちほど優等生となることができるのが現代の私たちの生きている社会なのだ。〜
障がいをお持ちの方々の支援に役立ちそうな文章に出会ったのでアップさせて頂きました。
次回は竹内敏晴のしごとⅡとして、同じところからの引用で、林竹二先生との仕事に入らせて頂きます。