うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

三つ子の魂百まででしょうか?と『余裕のある人きれいだな〜』


常春と言われる渥美半島でも、 ひーひー王子との散歩道の景色も、晩秋と言うより冬枯れという方がしっくりしてきました。

サリヴァンはやっと第4章 心気症、嗜虐症、妄想的展開に入りましたが、選択的非注意の章で、まだまだアップさせて頂きたいものがありましたので、アップさせて頂きました。


『選択的非注意』抑制、抑圧、解離―概念同士の関係を若干(サリヴァン)の続き 

解離ということばに馴染になりかけている人なら十九八九思いつく解離された活動は自動書記であるが、仮の説明に使うのは現実離れしており、おそらくあまりにも複雑すぎよう。この場合には、大脳皮質とおそろしく多数の神経連絡と巨大な骨格筋のトーヌスとを含む、その人の身体装置の非常に大きな区画が個人の意識から外へ抜け出て別人の一部であるかのような営みを行う。これは解離された行動の古典的で人目を惹く証明である。
 しかし、私の考えでは精神科医が主に関心を払う解離行動はずっと劇的でない。また、身体の大きな部分が束縛から解放されて勝手にふるまい、あたかも別人のものであるかのようであるために実に強くヒステリーではないかと懸念を抱かせるようなことは起こさない。私がお話ししようとしている解離行動は、生活史的には、幼少期のさまざまな姿勢や運動に端を発するものである。デイビヴィッド・レヴィは、私の理論が必要としている支持を実地観察によって与えてくれる、とてもありがたい人であるが、姿勢と運動に見られる奇異現象を研究して、その時折示される非常に個性的な態度や運動が、しばしばきわめて不完全で、細かなところは沢山脱落していてはいるが、この人の哺育された時の態度の複製品であることに気づいている。そのようなものが一番観察される時、そして、その人の中で起こっている他の事柄のあれこれと混じり合わない純粋な状態にある時とは、その人が疲れ、うとうとし、ほとんど眠ってしまおうとしている時である。この場合には、姿勢も、母親のふところに抱かれて授乳されている時にふつうとる姿勢のかなり正確な複製になっていることが少なくない。ここに見られるものは、明らかに、子宮を出てあまりたっていないころからほとんど変らずにそのまま残っている。神経や筋肉や〈骨格の配置の運動感覚〉などの、けっこう精緻なパターンである。一部は変化する。寝入りばなの人の写真を六か月置きに撮って念入りに調べてみたことがあれば、神経や循環に不都合なものが少しずつ除かれていくのがみえるだろう。具体的細部はきめ細かになるが、非常に迅速に洗練されていくわけではなく、また、成長して非常に順応的なパターンになることは確実にないといえる。これらのものは、分裂病の理論を樹てた時にお話しした非常に原初的な型の夢想過程は、空間的、筋肉的、姿勢的な形の一種の身体化をとげたものである。だから、むろん、これらは〈自己〉の枠内に入ったことは一度もない。これらは〈自己〉の一部を成してはいない。〈自己〉が活動停止に向かって沈下を始めるにつれて出現するだけのものである。



三つ子の魂百まででしょうか?




 自分のプライベートがないと現場から離れていく職員がいましたが、そんな職員に限って、平気で夜勤を代わってくれといったりシフト変更を急に言ったり他人のプライベートをなくしているのに気が付かないのは、選択的非注意の典型でしょうか?
『余裕のある人きれいだな〜』って時々TVから流れていますが、忙しい時間帯にレストランに入った時に、バタバタしている店員さんに出会った時の不快感は嫌ですよね(笑)現場でもどんなに忙しくても『余裕のある人きれいだな〜』でいたいと思います。