金魚?と本人の文脈を理解するということ
Kさんの作品が出来ました!
金魚でしょうか? 季節にぴったりです!
めっちゃかわいいですね!
しつこいですが(笑)今日もイチゴが採れました!
もう終わりかと思って居ましたが、まだ大丈夫そうですので、すろーじゃむの方も、うたたねの方も、イチゴが続きます!
昨日、一冊読み終わりました。
本人の文脈を理解するということ
ジャッジメントではなくアセスメントしていくためには、「医学モデル」を適応して症状を症状として位置付づけていくと同時に、患者の文脈を何よりも尊重する必要がある。
ジャッジメントとは自分にとっての「異物」を消化する試みであると言えるが、「異物」というのはあくまでも治療者の文脈から見た「異物」なのであり、患者の文脈から見るとそれは必ずしも「異物」ではないこともある。
患者の文脈を理解しただけで「異物」感が消えるのはたくさんある。したがって、患者の文脈を理解することは、ジャッジメントを手放すための強力な手段の一つとなる。
本を沢山読ませて頂く様にしていますが、読めば読む程、自分の力のなさが露呈されて、疲れて来ます......。
一般に、患者に対して「この感じ方は不適切だ」とジャッジしてしまっているようなときには、治療者は患者の文脈を理解していないということができる。
以前治療者向けのワークショップで「患者の感じ方がどうしても正当だとは思えないし、別の見方を教えていくべきだと思う」と述べたと治療者がいた。実際に、患者の身近な人たちもそんなことをしばしば言うものだ。 しかし、「患者の感じ方が正当なものではない」と伝えることに、何かプラスの意味があるだろうか。
患者にとっては、そう感じているということそのものが現実なのである。 ある生物学的な背景を持って生まれ、ある育ち方をし、ある体験をした人が、「そう感じている」ということ以上に正当なことがあるのであろうか。それを「正当でない」とジャッジすることは、不正確なことであるし、患者を混乱させ、コントロール感覚を奪うことになるだろう。もちろん、別の見方を教えることが必要な場面もあるだろう。しかしそれは、患者の文脈を十分に理解した上で、その文脈に合わせた形で教えなければ、決して役立つものとして吸収されることはない。 患者の文脈を理解するということは、患者の感じ方の何一つとして不適切なものはないということを認めることである。これは病気の診断を満たす状態の人においても何ら変わらない。ある生物学的な背景を持って生まれ、ある育ち方をし、ある体験をし、ある病気の症状を持っている人が、「そう感じている」のは適切なことなのである。これは患者に媚びることでも何でもなく、単に現実を現実として認めることに他ならない。
『水島 広子著・岩崎学術出版社・トラウマの現実に向き合う・ジャッジメントを手放すということより』
頭では理解できても、その域に行くのはまだまだ先の様に思えてなりませんが、努力はさせて頂こうとは思って居ます。
最後の方に『境界設定』(どの範囲であれば援助を期待してもよいのか・役割期待の調整)や『燃え尽き』(バーンアウト)についても書かれており、福祉職に置き換えて(治療ではなく支援ですが)考えさせて頂く事もできるので、非常に勉強になりました。
学齢児さんの入浴介助までの待ち時間に中井久夫先生の『サリヴァン、アメリカの精神科医』に入りました。
フロイトやユングはお金持ちしか相手にしていなかったけど、本当に患者を診ていた(臨床)のはアドラーだと先に読ませて頂いた本に書いてありましたが、サリヴァンも臨床実践者と書いてありました。
事務仕事も山積していますが時間を見つけ、難しい単語が沢山出ていますので、ググりながら読ませて頂きます。