うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

11月10日(金)のおっちゃんのデイリー・スッテップ(笑)と、【このような手の届きにくい患者では、主に話の内容に集中するよりも、患者のコミュニケーションの方法、すなわち実際の話し方や分析家の解釈への反応の仕方に注意を向けることの方が大切な場合が多い。】



 こちらは、おっちゃんの11月10日のデイリー・ステップです(笑)
おっちゃんの携帯は、薄いと1年に3個割ってしまったので、Gショックの物にしました。完全にアウトドア仕様。使わないですが(笑)ゲレンデ情報や波情報まで最初からアプリで入っています。山情報も!本当に使わない(笑)気圧は、てんかんの方の様子を見るのに使えるかも?ですね。まあ、アプリなんていまは沢山あるので、探せばより取り見取りですね(笑)
 水色が歩きで、黄緑色が車ですが、柔軟してたり、ギターを弾いていても車に乗っているようになっています。
設定はありますが、この携帯ではこれが限度でしょうか?
 出勤前に携帯を持って渥美にショートの利用者さんを迎いに行った時間帯です。

 こちらは、としちゃんと初立池で、歩き⇔ジョギングを繰り返した時間帯ですね。
赤は走った時間帯です。中々激しい動きにもかかわらず、波形が平坦ですね.....。

 こちらは、車で移動して滝頭公園で歩いた時間帯ですが、途中がなくなっています(笑)

 ここまで見ていると、走ったり、歩いたりの切り替え時よりも、車に乗っている時に波形が乱れますね。
何故でしょうか?

 食事の時間も走ってる(笑)


 お昼からは、サンテパルク(芦が池)を1週と3分の2歩きました。

 すろーじゃむで入浴介助している時も、車になっています(笑)

 お役御免で、歩いて帰宅しました。

 ご飯を食べて、アイレクスへ!


  丁寧に(笑)ストレッチ(股割)をして、筋トレし、足は115kgの負荷をかけて、ストレッチマシーンにいったら、パーソナル・トレーナーさんが、今からトランポリンをやるのでどうですか?とお誘いを?受け、誰でも簡単にできますよ!に騙され(笑)45分間の地獄を味わい(笑)全身汗でビシャビシャになりましたが、波形は乱れず(笑)
 あんなにぴょんぴょん跳ねたり、止まったり、右に左に足も手も振りまくったにもかかわらず(笑)波形は平たんですね。


 閉店間際になったので、慌ててお風呂に入って帰って来ました(笑)


 今の所、11月では、一番数値が高い日でした。
なぜじっとしている時の方が波形が乱れるのでしょうか?

 今度は夜勤時にやってみたいと思いますが、いつも充電している時間ですね(笑)でも、明日の夜勤でやってみます!
机に座って事務仕事やっていても、車と同じように波形が乱れるのでしょうか?それもやってみましょう(笑)



 本は、夜勤明けホット一息つきたくて、ファミマで100円コーヒー飲みながら読みました。

 





4,手の届き難い患者
 ベティ・ジョセフ
 〜このような症例の治療では人格内の分割が観察されるが、そのために自我のある部分が分析家や分析的な作業から遠ざけられていると思う。ときとしてこれはわかりにくい。なぜならば、患者が分析家と協力して作業をしているように見えようとも、その利用できる人格の部分がもう1つのもっと困っていて感受性鋭く応答する可能性をもった人格部分を排除し続けているからである。自我のある部分が、分析家と患者の別の自我部分との間で進行していることすべてを観察するかのように脇へ寄り、さまざまな回避やごまかしの方法を用いて本当の触れ合いがとうてい起こらないようにするといった分割の形をとることもある。また、一時的に分析の中から自我の大部分が消え失せ、その結果アパシーや極度の受動性が現れるということもある。これは強力な投影同一化の使用と関連している場合が多い。
 私が論じていることからおのずと、次のことが明らかである。このような患者たちでは治療の相当の期間におよんで分析の主なねらいは、人格をもっと利用できるようにし、自我のより大きな統合をもたらすようなやり方で患者のニーズと不安に触れる方法を見いだすことである。このような手の届きにくい患者では、主に話の内容に集中するよりも、患者のコミュニケーションの方法、すなわち実際の話し方や分析家の解釈への反応の仕方に注意を向けることの方が大切な場合が多い。言い換えれば、このような患者たちはよく話すときでさえも、ときには話しぶりそのものの中で、実は多くの行為をしていることを私たちは認識しなければならないし、私たちの技法では絶えずこれを考慮に入れておく必要があることを私は示唆しておきたい。 初めに分割の性質を調べることによってこの手の届かない患者の問題を吟味したい。このような患者は一見とても協力的で大人びている。しかし、これは偽りの協力であって、知られていないもっと困っている自己の幼児の部分から分析家を遠ざけておこうとするものである。この問題は文献上これまで次のような人々によって討議されてきた。すなわち、ドイチュ(1942)はかのような人格as−if personality,ウイニコット(1960)は偽りの自己false seif,メルツァー(1966)は偽−成熟pseudo−maturityに関する業績、そしてロゼンフェルド(1964)は自己愛患者における依存的な自己の排除を通してである。〜