うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

すろーじゃむの湯と、ブドウと、イチゴと、【魂の抜けていくのを許容することは、誘惑的なほど波風がたたず、穏やかなことでありうるのです。】


今日の日中は、賑やかでしたので、男子と女子に分かれて行動しました。
おっちゃんは、もちろん男子!
アプレシオで昼食の後、やす君の希望で、すろーじゃむの湯へ!
皆でじゃぼん!と飛び込みました!

 すろーじゃむワイナリー?は、現在のところ順調です!
今年は、実をならすより、樹に十分に栄養を蓄えられるように、葉を大事にしていきたいと思っています。

 イチゴは、無肥料・無農薬ですが、茂ってきました(笑)あまり元気になり過ぎると、花芽ができなくなるので、今年も肥料は上げません。(笑)


 夜勤明けでしたが、日中のメンバーが多くて、少し休憩を頂き、ファミマでコーヒーを飲みながら本を読ませていただき、休憩(頭を切り替え)させて頂きました。下記はその時に読みながら打ち込んでいた箇所です。(笑)
 アルヴァレズは、分かり易く書いてくれているので、自分みたいな初学者には有り難いです。

 切り取ることすらもったいない個所ばかりですが、下記が一番心に残ったのでアップさせて頂きました。

『臨床家には、それを敷衍し、私たちが患者について知るべきことは全て初回に含まれていると示唆した人たちかいます。もちろん、それは私たちにそれに気付く知恵と理解があるとしての話です。私は、それを真実だと確信していますが、同時に顕微鏡に望遠鏡であることは難しいことです。』

 今日も、難しいと言われている方の支援をさせて頂いていて、どのように接近すれば、彼の心の中に入ることができるのか?と一日考えて支援をさせて頂いていましたが、結局肌と肌を合わせるしかないのかな?とも思いました。(もちろん同性介助ですが)
 突然、外に出て行かれる方を抱きしめて、触れ合いながら、ふざけあっていると、自然に心が開かれるものです(笑)。
メラニー・クラインが言いたかったことも、簡単に言えば(言いすぎですがw)それだけのことかも知れませんね。難しい精神分析の本も、先日、出版された札幌の加藤先生の本も、詠ませていただくと、結局は同じことが言いたいのかな?とも思いました。
しかし、世間ではアカデミックに文章を作らないと(笑)誰も相手にしてくれません(笑)老子曰く『道を説いて、笑われないと、それは本当に道を説いたのではない!』世間ってそういうものかもしれませんね.........。本当に大事なことが分かっていたら、偉そうにはできないですね!
 威張っているやつほど、本当のことを知らないのかもしれません。




第1章 長い落下
〜これらの女性は二人とも、意味と現実の喪失に絶望していたのですが、それは、生が価値を持ち、思考に重みと密度があり、記憶が現在に意味を与えた時間を覚えていたからこそでした。彼女たちは比較する基準をもっており、おそらくそれが逃れたいと意志を与えたのでしょう。選んだ手段がどれほど恐ろしいものであってもです。このように記憶や希望が失われた場合に、絶望を越えて、ある種のあきらめきった受容が存在することがあります。これから述べようとする精神病の子どもたちの中には、違う存在の仕方があるかもしれないということを、たとえ以前に知っていたとしても、もう忘れてしまったとしか思えないような子どものいます。彼らは、こうした状態では、生に背を向けて自殺へ走りだすことすらしません。彼らが叫んだり、泣いたりすることはまれです。彼らは希望や記憶、そして恐怖すら超越してしまっているかのようです。Nadezhda Mandelstamは、拷問を受ける時に叫ぶのが正当である、と言います。なぜなら、叫ぶことが人間としての尊厳の痕跡の凝縮された表現だからです。彼女は、それが痕跡を残し、いかに自分が生き、死んだかを語る、人間的なやり方だと言います(Mandelstam  1970:42)。
 しかしながら、このように極度に引きこもった状態の子どもたちは、痕跡を残せるところは何もないと感じ、聞き手がいるとは想像だにしていないかのようです。もっともひどい場合、彼らはあきらめているかのようです。これらの患者に以前は生の兆候があったのを見たことのある心理療法家にとっては、こうしたことを目の当たりにしませんするのは恐ろしいことです。しかし、自分が患者と一緒になって、こうした状態に慣れてしまったとすれば、それはもっと恐ろしいことでしょう。タミーナが気づいたように、魂の抜けていくのを許容することは、誘惑的なほど波風がたたず、穏やかなことでありうるのです。




治療
初回のセッション
  Freud は、患者の行うまさに最初のコミュニケーションがとりわけ重要であるという点で、Adlerに賛同しています(Freud 1909:160)。臨床家には、それを敷衍し、私たちが患者について知るべきことは全て初回に含まれていると示唆した人たちかいます。もちろん、それは私たちにそれに気付く知恵と理解があるとしての話です。私は、それを真実だと確信していますが、同時に顕微鏡に望遠鏡であることは難しいことです。私たちは、おのずと表れてくる素材だけでなく、目には見えないか、あるいは目に見えても遠くにかすかにしか見えない素材にも、細心の注意を払わなければなりません。〜