うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

名古屋と、豊橋商工信用組合さんでのアトリエ・カーグ展の搬入と、【第8章 実地臨床における投影性同一視】


 今日はお昼過ぎまで名古屋でした。良いお天気だったので、帰りは栄から名古屋駅まで歩きました。

 神の慈しみが、待ち望む者の上にあるように!は電車の中で読んでいた箇所に繋がる気がしました。

 別に教会に行ったわけではありませんが、行くところに聖書の言葉があり、気が引き締まりました!
断食しないといけない体になって来ていますが......。

 15時に豊橋商工信用組合さんでのアトリエ・カーグ展の搬入があったので、用事だけ済ませて戻りました。

 親分が豊橋商工信用組合さんの前でスタンバイしていたので合流し、15時ちょうどに搬入してきました。
明日から、アトリエ・カーグ展が始まりますので、写真を撮りに行かないといけませんね!
 写真は親分が暇を見つけて作っていたボードです。
みなさんの作品が沢山飾られますので、是非とも、御高覧願います!

 電車の中や、待ち時間の中で沢山本を読ませた頂きました。(難しくて目標までいけませんでしたが......)
何回も投影性同一視が出て来ていましたが、メラニー・クラインの流れでは、重要なもののひとつですね。
 下記は支援者も訓練を受けないと中々難しいことかもしれませんね。

『何かを伝えるものである限り投影生同一視は良性の過程である、すなわち、投影を受ける対象は投影の過程によって変化しないと理解しておくことは重要である。強調すべき点は、自己の理解できない側面をコンテインする機能が対象に求められるということであり、その結果として、精神内容は理解できる形となり、だれかに理解され受け入れられたと感じられる体験が加えられた形で自己に戻らされうるのである。他にも、投影性同一視が、正常な対象関係の良性で本質的な一部分として考えられることがある。ここで私が考えているのは、分析的な治療の特別な局面であるが、そこでは自由連想は投影性同一視による外在化と考えられ、解釈を得るために、自らの精神内容は成長し、自己の(正しい)評価が導かれるのである(Grotstein 1981:125)。』




第8章 実地臨床における投影性同一視
 〜メラニー・クラインが述べているように、投影性同一視は主に原始的自己の防衛機制である。にもかかわらず、それは自己と対象との間に何かしらの分離が存在するという意味を含んでいる。ところが、一種の永続的な投影性同一視の状態に留まっている結果、もっと別のより原始的な、しかし同種の過程があると考えうる患者もいる。こうした原始的な原初の形態としての投影性同一視は、通常の投影性同一視の前駆体として、母親と赤ん坊との最早期の融合という初期状態に関連したものとして考えられる。まず投影性同一視の過程のあるものは、子宮の中で始まるものさえあるという可能性を私は考えている。私が言おうとしているのは、胎児は母親のある種の不安な精神過程に敏感な可能性があり、それは心身状態の根底にある過程と何かしら同じような方法で胎児に伝達されるということである。第二に、妄想的分裂的態勢に見られ、ついで抑うつ態勢で見られるような母親と赤ん坊との最早期の融合状態について私は考えている。例えばスタイネー(Steiner 1975,1982),タスティン(Tustin 1972),ビオン(Bion 1980),フェルトン(Felton 1985)のような分析家たちは、このような投影性同一視のより原始的な形態という概念を用いるが、他の分析家はそうではない。おそらく子宮の中で始まるほどのきわめて早期の過程が存在するであろうと私自身は感じているが、さらに注意深い臨床観察を十分にすることなしに、早期の過程の理解を深める方法があるかどうか私のはわからない。いずれにせよ、非常に早期の障害を患っている両親から生まれた子どもについて、これらの早期段階でのコミュニケーションを理解しようとするならば、分析家や治療者側の、特別に率直で敏感な精神状態が必要であるように思われる。この種のコミュニケーションの早期形態を研究してきた人たちは、赤ん坊が母親との関係で出会うコントロール不能の経験に重点をおく。
 母親の精神過程は何かしら浸透(osmosis)と同種の方法で、赤ん坊に伝達される(Steiner 1975,1982;Felton 1985)。子どもは何もできないままそれを吸収してしまうので、その経験はほとんど抗しがたいものになる。
 多くの境界例や精神病状態では、患者らは必死になって矛盾した、混乱した、あるいは混乱させる感情や思考と戦っているようである。彼らは自分の感情について考えたり認識したりすることが困難であるように見えるが、いずれにしてもいろいろな異なった方法で力強くそれを伝えたり、あるいは伝えなかったりするようである。この種の患者は、原始的な投影性同一視や浸透によるコミュニケーションという考えによって描かれる非常に初期の不安な体験を患っているのだろうと私は確信している。数日というより数か月にわたってこのような患者は非言語的な意思疎通が必要であり、しばしば黙ってしまうが、非常に混乱し、単調で、象徴的に話す。こういう経験はしばしば強い身体的な影響を分析家にもたらし、眠気や身体的不快感をつくり出す。それは分析家が考えたり集中したりする能力に大きな障害をもたらす。まるで分析家のなかに現実的で具体的な方法で何かが投げ入れられたかのようである。




投影性同一視とコンテインメント
 ちょうど今言及したことを心に思い浮かべつつ、投影性同一視を同時並行している二つの面で考えるのが役に立つと私は思う。一方ですべてのこの種の投影過程において排除的な性質が見られる。人間は、ときには非常に乱暴に、耐えられない思考や感情から自己を切り離そうとし。それを強行するために、想像力を用いて他者に押しつけたり支配しようとするのである。他方で、投影性同一視の過程はまたコミュニケーションしようとする試みとも考えられる。排除された耐えがたい、しばしば混沌とした思考や感情がコンテインされたならば(Bion 1962b),起こっていることが理解され熟慮され、思考や感情は耐えうる方向に道が開かれるようになり、耐えがたさは少なくなる。
  衝動や自分自身の一部を分析家に投影する精神病者は、それらを排除しているのである。しかしそうすることで、分析家が患者の経験を感じ、理解し、コンテインできるようにしてもいる。このようにして耐えがたい諸経験は恐ろしい、耐えがたい性質を失っていき、意味を帯びたものとなりう得るのである。感情を言葉に変えるために解釈を用いる分析家の能力を通して、患者は自分の衝動に耐えることを学び、以前には意味がなく恐ろしかった経験について考えはじめることができ、より正気の自己に近づいていくことができるようになる。 
 技法的見地からいえば、投影性同一視の過程が理解へと続く対話への道を開くという事実は、患者の投影をコンテインする力に決定的に依存している。しかし私の考えでは、患者の投影をコンテインすることが何を意味するのかを分析家が認識しておくことが不可欠である。「コンテインする」という言葉は、分析家は沈黙して不活発でいるべきであるという、どちらかといえば受身的な態度も意味しうる。これは(正常な発達において母親がするのと同じく)ときとして必要な分析家の機能であるが、実際にはコンテインする機能に受身性以上のものが非常に多く必要とされることを私は強調しておきたい。分析家は基本的に、強烈な対人関係に入り、かつ経験を言葉にする機能を保持できる状態でいなければならない。グロートシュタイン(Grotstein 1981:205)が「自閉的、共生的、そして分離し最後には個体化する関係」を経過として発達する「シャム双生児の結合」の様式とまで呼んでいる関係である。分析家は、患者が述べる現実、空想双方の出来事を共感的にたどらなければならないが、それらはしばしば分析家に投影されることによって再び現前化される。多くの患者、特に精神病や境界例の患者は、彼ら自身で考える能力を欠いているため、通常、分析家側が積極的に考えることを非常に多く要求する。分析家は自分の心のなかで、患者の思考以前の過程の拡散し、混乱し、分裂した側面を、まとめあげなければならないが、その結果、それらは徐々に筋が通り意味のあるものとなる。このことは分析家側に統合的で組織的な活動が必要であることを意味する。彼は患者に対し「芽生えたばかりの」コミュニケーションを徐々に再現して見せなければならないが、そうすることでそれは患者に理解できるものとなる――それはほとんど芸術のような活動である。〜

〜何かを伝えるものである限り投影生同一視は良性の過程である、すなわち、投影を受ける対象は投影の過程によって変化しないと理解しておくことは重要である。強調すべき点は、自己の理解できない側面をコンテインする機能が対象に求められるということであり、その結果として、精神内容は理解できる形となり、だれかに理解され受け入れられたと感じられる体験が加えられた形で自己に戻らされうるのである。他にも、投影性同一視が、正常な対象関係の良性で本質的な一部分として考えられることがある。ここで私が考えているのは、分析的な治療の特別な局面であるが、そこでは自由連想は投影性同一視による外在化と考えられ、解釈を得るために、自らの精神内容は成長し、自己の(正しい)評価が導かれるのである(Grotstein 1981:125)。多くの分析家から対象備給と呼ばれている過程にも、投影性同一視が含まれていると私は思う。同一化することで対象を認識するために、自己の側面を投影し外在化することがあるが、これが共感の基礎である。これらすべての投影性同一視の例は、対象関係を発達させるために必要なのである。