うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

昨日のすろーじゃむと、「ひこうき雲」と、音楽は「あいだ」で鳴っている


 すろーじゃむのいちご畑の収穫をしました。
重度の方に見守って頂き、沢山収穫することができ、夕食時に世話人さんに出して頂きましたが、農業をされている世話人さんにも美味しいと言っていただけ、嬉しかったです!
 何となくいちごの育て方が分かったので、来年は大漁?に出来る様頑張ってみます(笑)

 散歩組は、江比間漁港に行き、支援者も良いお天気だったので、鬼ごっこ状態で(笑)沢山運動出来ましたし、大笑いしたので、嚥下のトレーニングにもなったと思われます。
 おっちゃんも沢山走り、沢山笑いました!

 休憩時に景色を見たら、良い景色でした。


 どろんこ村さんのランチを頂いた後、やぎさん達を見に行きました!



 みーちゃんの四十九日に間に合うように、「ひこうき雲」をギターソロにアレンジをしていましたが、大分前に完成していたので、何回か弾かせてもらいました。最終的には、ピックのストロークだけで、ブロックコード的なアレンジになってしまいましたが、自分らしいかなとも思いました。
 基本的には普段ソロ用にアレンジする時は、中学校時代に習った『カルカッシ・ギター教則本』に沿ったアレンジになりがちですが、今回は自分流にこだわってみました。
 ユーミンの曲は、荒井由実時代の方が、二次言語的というか述語的自己的と言うか、自分の心がその音の中に入れるので個人的に好きです。
ユーミンというより、キャラメルママ(ティンパンアレイ)が好きなのかも知れませんが(笑)余談でした。



臨床哲学の知』を読み始めましたが、ジミヘンのいう「ブルースは簡単に弾ける。だが、感じるのは難しい」という言葉を思い出しました。
 ブルースは音と音との間にある鳴らない音を感じないと弾くことが出来ないとも言っています。
やはり『あいだ』が大事なのですね。

臨床哲学の知』臨床としての精神病理学のために 木村敏・聞き手=今野哲男)
まえがき
〜これはこの本の中でもいっていることだが、わたしが精神科医になったのは一九五六年、その前年に教授として京大精神科へ着任された村上仁先生のところで勉強したいという気持ちからだった。入局早々に村上先生から「精神科ではなにをしたいのか」とたずねられて、「精神病理学です」と答えた。先生はその当時、わが国の精神病理学の第一人者と目されている人だったし、わたしが精神科へ行こうと思い立ったのも、先生の精神病理学に惹かれてのことだった。ところが先生は、わたしの答えを聞くなり、先生独特のぶっきらぼうな口調で、 精神病理学という特別な分野があるわけじゃない、精神病理学というのは精神科の臨床のことなんだ」とおっしゃった。〜

第1章「自己」と「あいだ」からの出発     
音楽は「あいだ」で鳴っている
 〜これは『あいだ』のなかでも「合奏の構造」という形で書いたことですが、ある程度の水準をもった演奏者同士が合奏する場合、ほぼ次の三つの段階が想定できます。
 ひとつは各自が楽譜を忠実に再現しようとするだけの初歩的な段階。つまり、各自が自分の技術水準に従って、メトロノーム的な正確さだけを求めて演奏する場合です。この場合は、仮に合奏が成立するとしても、演奏者各自が外にある楽譜に合わせよう、合わせなければならないという緊張を強いられていますから、「述語的自己」といえるようななまなましさや自然さ、あるいは自由な感覚はほとんど生じません。ですから、リアリティとしては正確に進行しているような、整然とした演奏ということなら場合によっては望むことができるかもしれませんが、生命感が躍動するような深い感動は生まれないといっていいでしょう。演劇でいえば、演技者が台本や演出家の指示を忠実になぞるだけの段階といっていいのかもしれません。
 二番目は、物理的な正確さから抜け出して、個々の演奏者が共演者の演奏に合わせようとする段階です。この段階では、面白いことに、演奏者の中にかなりの力量差があっても、場合によって、一人の力が全体の演奏の質を飛躍させてしまうことがあります。音楽好きの人なら周知のことだと思いますが、あまり名も知られていないようなオーケストラでも、優れた指揮者や演奏家が参加したとたんに、驚くほど素晴らしい名演奏を聴かせてくれることがあります。これは、その名人の演奏が、つまりその名人の「述語的な自己」が、正確さだけにとらわれた合奏全体の閉じた演奏を開いて、生命感に溢れた、一人ひとりの「述語的な自己」を引き出してくれるからだといっていい。「述語的な自己」には、そういった他人への感染力があると思います。演劇の場合は、相手役によって演技が変わったなどということがあるようですが、それと同じことかもしれません。
 さらにもう一つ上の、メンバー全員がある程度の技術と芸術性とを備えているという理想的な場合を考えてみます。ここでは、初歩段階の正確さにとらわれた緊張はもちろん、楽譜に合わせようとする意識すら消えてしまいます。一人ひとりの演奏者が各自の力量と技術を発揮して、各自の「述語的な自己」を瞬間ごとに実現し、しかもその結果として、ひとつのまとまった自然な流れとしての合奏が成立します。あなたはさきほど、演技者個人の体験として「突然剥き出しになった身体感覚が、バラバラに、しかも一斉に襲ってくる」という言い方をしたわけですが、この場合の演奏には、それと似たことが、演奏者個々というよりその「あいだ」で、全体として起こっているように思います。わたしたちは、そこにアクチュアリティとして起こっているものを指して音楽と呼んでいるのかもしれません。〜




 これは、福祉の現場にもそのまま当てはめて考えることができます。
難しい方の支援も、現場にひとり、そのかたの「あいだ」を感じる事ができる支援者がいると、時間が掛るかもしれませんが、その施設の大部分の支援者が難しい方の支援が出来るようになります。