うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

蓮の実と茶の本より


 仏壇の横で頑張っていた蓮の実も、そろそろ限界でしょうか?
素敵な色になって来ていますが.....。



 猛暑のせいか? ただ単に知識が無いだけか? 活けても直ぐに枯れるので、いっその事初めから枯れた物をと思い、ひーひー王子と行った早朝の散歩で、眼についた物を手折ってきました。
 これなら長持ち(笑)


 自宅でも事務仕事に追われる毎日なので、PC増設を理事長が了承してくれ、いつも購入と設置とご指導を頂いているネオテックさんに相談し、ヒューレット・パッカーさんに注文させて頂きました。物は勿論ネオテックさんが見積もってくれました。
 約5年前に購入した(こちらもネオテックさんが探してくれました)作品を作る際に良く使うソフトも新しいPCに対応しているとの事で助かりました。
 PCはまだ来ませんが、今日は増設するためのスペースに置くPCデスクをリサイクルショップで、親分が例のごとく安価で見つけて来て、それを取りに行って来て、デスクだけ設置しました。
 2,000円にしたら上等です!


 片付けをしていたら、『茶の本』がどこかから出て来たようで、ぱらぱらと読み直してみましたら、福祉の現場にも十分通用する金言が沢山ありました。耳が痛くなりますが(笑)

 茶の本岡倉天心著(立木智子訳)
第一章 人間性の一碗
茶道とは日常性生活の些細な事柄に差を見出し、讃美し、それを礼讃する事なのです。茶道を通じて私たちは、清浄と調和、他人に対する思いやりの深遠さ、社会秩序の観念を学びます。それは本質的には、不完全なものへの崇拝です。というのは、人生という手に負えない困難を乗り越える上で何かをなしとげようとする心優しい試みであるからです。


 

肝に銘じて頑張ります!日常性生活の些細な事柄に差を見出すは、自分が作品作りの理念にさせて頂いている『帰納』そのものです


第二章 道教と禅
一碗の中の芸術
茶は芸術品でありますから、茶の最も高貴な特性を引き出すには、名人の術(わざ)を必要とします。絵に傑作と駄作がある様に(たいていは後者ですが)茶にも良い茶と悪い茶があるのです。完璧な茶を点てるのに、決まりきった点て方があるわけではありません。それはティツイアーノや雪村の名画を生み出すのにある一定の方法が無いのと同じことです。


よく、雪舟は難しいから雪村から入ると良いと評論家の先生方は言われますが、自分には雪村も十二分に難解です.......。


老子は、この概念を「虚」の比喩を使ってうまく表しています。彼はただ「虚」にのみ真に肝要なものが存在すると主張しました。たとえば、建物の現実は四方の壁と屋根からなるのではなく、その中に住む空間から成るのです。水指が役に立つのは、水を入れる空間があるからであり、水指の形や素材は問題になりません。「空」はすべてを含むから万能であります。「空」の中では、動くことが可能であり、自分を「空」の状態にして、他人が自由に入れるようにできる者は、あらゆる情況を制覇することが出来るでしょう。



言いたいことは分かるような気がしますが、ここまでの境地に行くまでに後どれだけ頑張ればなれるのか? 考えるだけで気が遠くなりそうです.......。


さっさと自分の身を隠しなさい。もし、あなたがどんなに役立つ人間か人に知られたら、たちまち競売にかけられ、最高入札者の手に渡ってしまいますよ。どうして男も女も、そんなに自己宣伝をしたがるのでしょう。これは奴隷制のあった時代から受け継がれてきた本能ではないでしょうか。


これは、長野でお世話になった中国人の友人(南方中国の人なので南方禅的な考えの持ち主でした)が良く言っていた事ですが、彼の弟ご夫婦の帰化申請の書類を書いてくれと頼まれ書かせて頂いた記憶があります(笑)一緒に輸入事業を起こさないかと誘われたこともありました......。良い思い出です。
その当時、今の中国になって50周年の記念パーティが長野県であり(おそらく長野在住の方々の)それに一緒に行こうと言ってくれましたが、周りから反対されたようで、済まなかったと50周年記念のピンバッジをくれました。自分が中国文化が非常に好きな事を彼は理解してくれていたので、誘ってくれたのだと、今も思って居ます。 自分に言語障害が無かったら、彼の力になれたのに.....。と思い悩んだ時もありましたが、彼は上海の近郊で500室のホテルを2軒やっていた方なので、自分の才覚では、きっとついていけなかったと思うと、少しは気が楽になります。
 彼の弟さんのお店の看板の字は、愛新覚羅溥傑が書いたと聞きましたし、松本は川島芳子が少女時代を過ごした所でもあります。時代に翻弄された方々でした。





第五章 芸術の鑑賞
今日では作品の質よりもむしろ、作家の名前の方が重要です。幾世紀も前に、ある中国の評論家は「人々は耳で持って絵を評価する」と指摘しました。このように今日では真に作品を鑑賞する力を失ってしまっているのです。今日どこを向いてもえせ古典主義に対し嫌悪を抱く者に出会いますが、彼らは真に鑑賞する力を持ち合わせていないからです。
    


福祉もアートも死ぬまで勉強ですね!頑張ってサリヴァンも読ませて頂いています。