うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

昨日のうたたねと、スーパーの棚は“空っぽ” イギリスを苦しめるのは…と、【幻想機能によっていままで自分が行ってきたことを、外的なマスメディア機能によって代行してもらってしまっているような部分があります。】

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 昨日も笑顔で一日が終えられたこと、皆様に感謝です!


  個人的には、Uber Eatsとか、聞こえの良い、空いた時間を!空いた時間で!と言うのはなんだか空虚な感じがしていました。このコロナ禍で、不確実性が高まる中、そんな不安定な仕事しかなければ、人材不足になるのは目に見えていたはずです。サービスの経済化自体が主婦など家庭の大黒柱がきちんと日々の糧を稼いでくれる人間がいて初めて可能になるのではないでしょうか?雇用者が欲しい時だけというのは、労働人口の何パーセントがその中に当てはまるのか?不安定な収入・仕事量で誰が安心・安全感をもって日々暮らすことが出来るのか?ソンタクが言うように戦争も他人の不幸も、ただ流れ去る映像の中だけのように見えてしまっているのでしょうか?

 自分は流通論の最終レポートでその辺に触れました。下記とは少し逸れましたかね。


 

  下記はおそらく30年くらい前に書かれたものですが、ぴったりと現在にはまっている気がするのは自分だけでしょうか?

一例として、このような観点からしばしば口にされる現代の活字離れの現象を考えてみましょう。
 字文化では精神生活の中で小説を読むという作業が大きな比重を占めていました。この場合、文字から入ったものについていろいろなイマジネーション=想像作用を起こして、そのイメージに自分の抱いている幻想をいろいろと結びつけて肥大させて読んでいくという作用があります。
 かし、いまの若者は活字文化と映像文化という違いがあるせいで、そういう意味の幻想機能がとても退化しています。幻想機能によっていままで自分が行ってきたことを、外的なマスメディア機能によって代行してもらってしまっているような部分があります。
 ならば、小説を読んでそのなかの女性なら女性をいろいろ空想して、それを心のなかに抱くという能力が非常に高かった。ところが、いまの若者は本を読んでひとりでいろいろ幻想を深めることをしない。映像で見てしまって、具象的な形で知覚することからはじまるわけです。それが活字文化と映像文化の大きな違いです。だからいまの若者は幻想能力は貧困化しているが、視覚的な能力が発達しています。〜